かつての長与千種を動画で見て「この人、死んじゃうよ!」 彩羽匠はいかにプロレスにとり憑かれ、リングに上がったのか
【長与とのすれ違いを乗り越え、マーベラスに入団】 憧れの長与に初めて会ったのは、大学生の時だ。剣道部だった彩羽が国体ベスト16に入った褒美に、母親が長与の経営する東京・湯島のパブに連れて行ってくれた。母は長与に会えば気持ちが落ち着いて、また剣道に専念するだろうと思ったのだ。しかし、そこからさらに火がついた。「心が火事でした」と彩羽は笑う。 その頃、長与は団体を作るかどうか迷っていた。2009年7月、全日本女子プロレスの松永高司元会長が間質性肺炎のため死去。長与に「もう一度、横浜アリーナでやりたい」という遺言を託した。その後、長与の父もすい臓がんで他界。モルヒネが効かず、全身麻酔のなかで最期に言われた。「たったひとりでいいから、選手を作れ。もう一度、見せてくれよ」――。 彩羽がパブを訪ねてきたのは、そんな時だった。プロレスラーになりたいという強い思いを聞き、喉から手が出るほど「欲しい」と思った。しかし、「よし、来い」とは言えなかった。道場もリングもない状況だったからだ。それから2年が経ち、ようやくすべてが整いかけた時、彩羽は大学を中退してスターダムに入団してしまう。現実を受け止めるほかなかった。 「長与さんに『大学を卒業してからでも遅くない』と言われて、『自分は今のプロレスを全然知らない』と思ったんですよね。また東京に行って、たまたまその日にやっていたのがスターダム後楽園ホール大会だったんです。(岩谷)麻優さんとかも同い年なので、『やっぱり自分、遅いわ!』と焦りを感じて、そのままスターダムに入団しました」 2013年4月29日、スターダム両国国技館大会にてデビュー。対戦相手は"女子プロレス界の横綱"こと、里村明衣子だ。里村に三角絞めを仕掛ける場面もあったが、最後はスリーパーホールドを決められてレフェリーストップ負けを喫した。
翌年3月、彩羽は長与千種プロデュース「That's 女子プロレス」に参戦。長与、花月と組み、ダンプ松本、KAORU、世IV虎組と対戦した。大会の最後、長与は新団体マーベラスの旗揚げを発表。彩羽はそこで初めて知ることになる。憧れの人が新しい団体を作る。自分はそこには入れない――。 動揺を隠すのに必死だった。自分に対して苛立った。なぜ自分はもう少し待たなかったんだろう。長与に初めて会った時に言われた「大学を卒業しなさい」という言葉通りにしていれば......。長与のその言葉は、「待っててほしい」の意味だった。 その後、「That's 女子プロレス」の地方巡業に、彩羽は帯同する。長与の身の回りのことをこなすなか、一番キャリアの浅い彩羽は、洗濯機を使うのが深夜3時近くになったことがあった。長与のコスチュームが朝までに乾かない。そう思った彩羽は、朝までコスチュームを持ってホテルの中を走り回り、乾かした。それを聞いた長与は思わず笑ってしまった。やっぱりこの子が欲しい。すれ違いを乗り越え、2015年、彩羽はマーベラスに入団した。 (後編:彩羽匠が抱く決意「長与千種の遺伝子が里村明衣子で終わってほしくない」>>) 【プロフィール】彩羽匠(いろは・たくみ) 1993年1月4日、福岡県福岡市生まれ。2013年4月29日、スターダム両国国技館大会の対里村明衣子戦でデビュー。2015年2月22日、長与千種の新団体マーベラスに移籍。2022年1月10日、後楽園ホール大会にて、橋本千紘とAAAWシングル王座とAAAWタッグ王座のAAAW王座全権を懸けたシングルマッチが行なわれ、勝利。AAAWシングル王者に認定される。9月16日、永島千佳世とのタッグでAAAWタッグチーム王座を獲得し、二冠王となる。2023年8月、アメリカのWest Coast Pro Women's Championship、12月、スペインのRCW女子世界王座を戴冠。2024年8月8日、後楽園ホール大会にて尾崎魔弓を破り、AAAWシングル王者に返り咲く。170cm、65kg。X:@crushTKB
尾崎ムギ子●取材・文 text by Ozaki Mugiko