かつての長与千種を動画で見て「この人、死んじゃうよ!」 彩羽匠はいかにプロレスにとり憑かれ、リングに上がったのか
【優秀な姉と比べられ、劣等感を抱いていた幼少期】 彩羽は1993年、福岡県福岡市に生まれた。九州最大の繁華街・天神の近くだが、彩羽の生まれ育った場所はのどかな街だった。 父、母、4つ上の姉がいる。活発な姉とは対照的にまったくしゃべらない子供で、産まれた頃から会っている親の知人が、3、4歳になって初めて声を聞いたというほどだった。 彩羽の幼少期の写真はほとんど残っていない。残っている数少ない写真も、顔を隠していたり、電柱に隠れていたりする。「人に見られることが大嫌いだった」と振り返る。 「誰かの話題になるのも嫌で、『何が好きなの?』とか聞かれるのも怖い。自分のことを何も知ってほしくないっていうくらい、自分に自信がなかったです。"自分は他の人とは違う"というのを昔から感じていたんですよね」 あまり友だちができず、中学に上がる時に「このままじゃダメだ」と思い、"友だち作り"を頑張った。荒れた学校だったため、友だちと一緒に悪いことをたくさんした。本当はいけないことだとわかっていても、友だちを作るためには「ダメ」とは言えない。生活は荒れていき、内心モヤモヤしていた。 中学2年生の時、先生や親に「そんなエネルギーがあるんだったら武道をしろ」と言われ、剣道を始めた。最初は気が進まなかったが、幼稚園から剣道を続けていた相手と試合をしたところ、思いがけず勝ってしまった。勝つことに喜びを覚え、そこから剣道に集中するようになった。 「お姉ちゃんが勉強もスポーツもなんでもできる人だったんですよ。自分は頭もよくないし、スポーツも全然できなくて、ずっと劣等感があったんです。それまで負けて当たり前だと思われていた自分が剣道で勝ったことで、初めて認められた気がした。剣道に救われた部分はすごく大きかったです」
【リング上で闘う少女に「この人、死んじゃうよ!」】 プロレスとの出会いは高校生の時。パソコンを使う授業中にYouTubeを開くと、北斗晶vs. 神取忍の試合がトップに出てきた。1993年の横浜アリーナ。壮絶な流血喧嘩マッチを繰り広げたことで、勝敗を超えた名勝負として語り継がれている試合だ。 プロレスラーはただ殴り合って、勝敗が決まる。時には凶器を使い、流血をする。プロレスに対してはその程度のイメージしかなかった。しかし北斗と神取の試合を観て、「プロレスラーにはこんな感情があるんだ」ということに驚いた。普段、感情を押し殺して生活していた彩羽が、リング上で「これでもか」と露になる感情に心を動かされたのは必然だった。 プロレスに夢中になるうちに辿り着いたのが、1985年に行なわれた「敗者髪切りマッチ」だ。自分と同じ年くらいの少女たちが、髪の毛を懸けて闘っている。しかもひとりは凶器を使い、もうひとりは流血しても立ち向かっていく。 流血している少女の名前は「長与千種」だと知った。名前の読み方もわからないが、彩羽は少女に夢中になった。相手との圧倒的な体格差があり、一方的にやられるだけでほとんどやり返せていない。「この人、死んじゃうよ!」と思った。それでも、少女の目は死んでいない。セコンドにタオルを投げられても投げ返す。負けたあとも「負けてない!」と叫び続ける少女に、彩羽は恋をした。 寝ても覚めても、長与のことが頭から離れない。学校にDVDレコーダーを持参し、授業中も昼休み中も、ずっと長与の映像を見た。なぜそこまでして闘うのか。自分もその原動力を知りたいと思った。気づいたら「自分もプロレスラーになりたい」と思っていた。 プロレスに出会う前の彩羽は、人に興味がない、テレビにも興味がない、冷めた子供だった。それがプロレスに出会ってから、クラスでプロレスごっこをするようになった。プロレスラーの痛みを知りたいと思い、男子に「上から投げて」と頼み、ベンチの上からボディスラムで投げられたこともある。あばらが折れたが、プロレスラーの痛みを知ることができてうれしかった。生まれて初めて、熱くなれるものを見つけた。