岡田監督の一言に「ホンマにムカついて」 新聞目に“怒り”「プライド傷つけられた」
濱中治氏は2006年に打率.302、20HR…3度の右肩手術を経て復活
阪神などで活躍した濱中治氏(野球評論家)がキャリアハイの成績を残したのはプロ10年目の2006年。139試合に出場して打率.302、20本塁打、75打点。2003年と2004年に計3度受けた右肩手術を乗り越えての活躍だった。「何が良かったのかと言われたらわからないんですけどね」と笑いながら振り返ったが、気持ちは燃えに燃えていたという。開幕前の岡田彰布監督のコメントに発奮。「結果で見返すしかないと思っていた」と吐露した。 【映像】グラブ投げつけ、踏むわ踏むわ…ブチ切れて扇風機をボコボコ 濱中氏は2003年7月に右肩脱臼、右肩関節唇損傷による手術を受けた。その年の日本シリーズで復帰できたものの、翌2004年も右肩痛で離脱し、今度は7月と9月に2度も手術を受けた。「もう野球はできない」と一時は絶望感いっぱいのどん底状態に陥ったが、ファンからの激励を受け、立ち直った。リハビリに励み、2005年はセ・パ交流戦から1軍昇格。守備は無理だったが、5月6日の日本ハム戦(札幌ドーム)に「7番・指名打者」で出場した。 「あの年が交流戦元年。DH制があったのでね。交流戦がなければ復活できなかったので、僕にとってはありがたかったですね。交流戦前の雁ノ巣での2軍のソフトバンク戦でホームランを打ったり、バッティングはいい状態だったので岡田監督は呼んでくれたと思います」。復帰戦は5打数1安打2打点。その後もDHがある試合ではスタメン起用された。6月8日のオリックス戦(大阪ドーム)では1号ホームランも放った。 交流戦終了後は代打が中心だったが、リーグ優勝に貢献した。東京ドーム、神宮などの敵地で右翼の守備にも数試合就くなど、慣らし運転。0勝4敗で敗れたロッテとの日本シリーズでは、本拠地・甲子園でも第4戦に途中出場で右翼を守った。「いきなりライト線に飛んできたんですよ。ファンの方が“大丈夫か”って感じでざわめいた中で、セカンドへストライク送球。あれで自信になったというか、守備もやっていけると思いましたね」。 もう一度戦える。そう確信して臨んだのが、2006年シーズンだった。登録名を「濱中おさむ」から「濱中治」に戻し、背番号は「31」から「5」に変えてもらった。「31をつけたときから1桁が空いたら、お願いしますと言っていたんです。31は偉大な先輩(掛布雅之氏)がつけた重たい番号だったのでね」。いずれも心機一転、完全復活を誓ってのことでもあった。 実際、その通り、結果を出した。3月31日のヤクルトとの開幕戦(神宮)は出番なし。2戦目、3戦目も代打起用だったが、2カード目の4月5日の広島戦(広島)に「6番・右翼」でスタメン出場して第1打席から2打席連続本塁打を放つなど、4打数3安打4打点と活躍して波に乗った。「そこから怒濤の10本が始まったんですよね」と濱中氏が話したように4月は打率.435、10本塁打、22打点と大爆発。3・4月度の月間MVPにも輝いた。