除染を徹底してほしい 国の方針に疑問拭えず【復興を問う 帰還困難の地】(48)
「本当にさみしいし、悔しい」。富岡町夜の森駅前北行政区副区長の鎌田和義さん(69)は、知人に宛てた手紙が「あて所に尋ね当たりません」と記されて返ってくる時のやるせなさを口にする。 東京電力福島第一原発事故の発生直後、同行政区には二百二十世帯が所属していた。ばらばらに避難したため、総会の出欠確認などは手紙を中心に行っていた。避難生活が長引く中、名簿の宛先から引っ越し、連絡先が分からなくなる世帯が増えている。 行政区内は帰還困難区域とされた。国は区域設定の基準を「年間積算線量五〇ミリシーベルト超」とし、「除染によっても放射線量を下げるのに相当長い時間を要する」と理由を挙げた。同行政区の住民には長い間、いつ帰還できるか示されなかった。「『帰還困難』とされたから地域がばらばらになった」。十年を経ようとする今も、やるせなさが募る。 ◇ ◇ 鎌田さんはいわき市に生まれ、幼少の頃に富岡町に移り住んだ。成人してから町社会福祉協議会に就職し、貧困や介護など各家庭の悩みを親身になって聞き、解決する仕事に誇りとやりがいを感じていた。
「大人から子どもまでみんなの笑顔があふれ、交流が盛んだった」。四季の行事が今も思い浮かぶ。春の桜まつりでは子どもみこしの歓声が響き、秋の運動会ではグラウンドを走り回り、芋煮をした。地元の大年神社の元朝参りでは甘酒やそばが振る舞われ、皆で新年を祝い合った。 穏やかな生活は原発事故で一変した。社協職員として避難所を駆け回り、「すぐに帰れるから」と町民を励まし続けた。ただ、原発事故発生から一年がたっても同行政区の放射線量は場所によっては毎時六・〇マイクロシーベルトに上り、二〇一三(平成二十五)年三月に帰還困難区域に設定された。避難指示解除や除染の見通しは示されず、「もう二度と帰れない」と宣告されたように感じた。 帰還困難区域を示すフェンス内の自宅と区域外側の地域、数百メートル離れているだけで避難指示の種類が異なり、除染の開始時期も違った。「どうして自分の地域が」。何度考えても納得できなかった。
◇ ◇ 行政区内の放射線量は特定復興再生拠点区域(復興拠点)の整備に伴う除染により、おおむね毎時一・〇マイクロシーベルト未満まで下がった。だが、ばらばらになった地域を思う時、「帰還時期を長らく示さなかった国の方針は正しかったのだろうか」との疑問が拭えない。 町内の復興拠点では年間積算線量二〇ミリシーベルト以下を目指して除染が進む。鎌田さんは、可能な限り国が長期目標に掲げた年間一ミリシーベルト以下を目指し、除染を徹底してほしいと願う。「『帰還困難』のイメージを打ち消し、古里に戻ろうと考える人を増やすためには必要なこと」。思いは日増しに強まるばかりだ。