人生の岐路…引退発表の上原浩治に21年前エンゼルス交渉担当者は言った「巨人へ行きなよ」
上原は、巨人時代の2007年にクローザーを経験、メジャーに渡ってからもセットアッパー、クローザーとして存在感を示すことになるが、本多氏は、そこに適性があることをこの段階で見抜いていた。当時、エンゼルスには、元オリックスの長谷川滋利が所属しており、それもメジャーに溶け込むための手助けになると考えていたという。 本多氏は、何度も、直接、上原本人と会って交渉したが、驚かされたのは、その思考だ。 「何の疑いも持っていなかった。メジャーで絶対やれると、自分の力に自信を持っていた。後先など考えない。ネガティブの真反対のポジティブ思考。プロ向きだと思った」 当時、エンゼルスが、オファーしたのは250万ドル(当時のレートで約2億7500万円)。だが、巨人の条件には勝てなかった。それでも、上原の心はエンゼルスに傾いていたが、彼の父が巨人ファンということなども手伝って、なかなか決断ができなかった。 迷える上原に本多氏はこう薦めたという。 「ジャイアンツに入りなよ!」 担当責任者が、ライバルチームへの入団を薦めるのは異例だが、本多氏は、その理由をこう語る。 「投手は故障してしまえば、そこで終わり。なんの保証もない。じゃあ、できるだけ条件のいいところへ行ったほうがいいと思った。最後は、大人の事情が手伝ったのかもしれないが、私は、上原を泣く泣くあきらめた。当時は、今のようにポスティングシステムも確立されておらず、巨人に行ってから数年後にメジャーということも想定できなかった。1年目に彼が20勝したときは良かったなという思いと、やっぱりな、メジャーでやれたなという複雑な気持ちだったけど、その10年後にメジャーで大成功するんだから不思議だね。そのときは私はエンゼルスを離れていて再交渉はできなかったんだけどね」 エンゼルスの担当者の一言が上原の決断にどう響いたのかはわからない。だが、結局、上原は巨人を逆指名して1年目から20勝4敗の成績で主だった投手のタイトルを総なめにした。その後もエースとして君臨。沢村賞を2度受賞の大投手になった。 もし巨人に入団することなく大体大から直接エンゼルスに入団していればどうなっていたのか。大谷翔平の大先輩になっていた反面、滑るメジャーの公式球や硬いマウンド、中4日登板などの慣れない環境で、上原は早々に故障していたのかもしれない。実際、上原は、2009年に33歳にしてオリオールズにFAで移籍すると、1年目から右肘の靭帯を部分断裂して、その年、12試合にしか登板できなかった。 だが「負けたくない。反骨心」が上原を立ち上がらせた。