ウオッカの軌跡【10】ダービー挑戦の余波…尊敬する橋口弘次郎調教師の連続出走記録が途絶えた
64年ぶりに牝馬として日本ダービーを制するなど、競馬界に大きなインパクトを残した名牝ウオッカ。前記の07年ダービーをはじめ、競馬史に残る死闘と言われた08年天皇賞・秋、主戦・武豊の突然の乗り替わりがあった09年ジャパンカップなど、歴史的牝馬の衝撃的な生涯を追う。(この連載は2020年9月14日~11月26日東京スポーツに掲載されたものです)
ウオッカの堂々たる姿を見て落ち着いた
調教師の角居にとって、初めての日本ダービー。朝から緊張して、どう過ごしたかも記憶は曖昧なまま、パドックに立っていた。18頭のサラブレッドの息遣いや、ファンの熱狂さえ聞こえない。そこは無音の世界だった。 「正確に言うと、耳鳴りのような“キーン”という高い音がしていた」 角居は不思議な感覚に陥っていた。 「これが、日本ダービーのパドックか…」 それは己だけではなく、ここにいる全ての人馬の緊張の音のように思えた。 初めてのダービー、まして牝馬での挑戦、そして、優勝を意識できる馬…この緊張の中でも、角居が最も“大きなもの”を背負っていることは間違いなかった。 その張り詰めた静寂は、本馬場に移ると、どよめく歓声が地を伝いスタンドをも揺らすような爆音となった。調教師スタンドから眺めていた角居は、 「これが、日本ダービーか!?」 そのすさまじい空気の変化に驚いていた。しかし、角居とは裏腹にウオッカは牝馬と思えない堂々としたものだった。その姿を見て、角居もようやく心が落ち着いた。 13万人を超えるファンが詰めかけた大スタンド前に18頭が揃い、発走の時を待つ。 「本当にこの舞台にたどり着いた」 角居は感慨にふけっていた。牝馬の挑戦が常識ではないことくらいは、角居自身もわかっている。ウオッカが出走したことで、角居が尊敬する橋口弘次郎調教師のダービー連続出走記録が途絶えた。 「橋口先生のダービーへの執念は、もちろん知っていました」 申し訳ない気持ちがなかったわけではない。それでも、挑戦するという行動で、ファンに夢を見てもらいたいという思いが、角居をここまで突き動かしてきた。それは、出走を直前にした、今この時間でも変わらない。パドックで周回するウオッカを見ても、牝馬という負い目はどこにも感じることはなかった。批判や非難があったのは重々承知しているが、ここに集うファンたちは、ウオッカの挑戦に一定の評価を与える単勝10・5倍の3番人気に支持していた。牝馬ということを考えれば大きな期待だった。 レース直前になった。ファンは待ち切れないとばかりに、手拍子を起こし始めた。手を叩く者、新聞を叩く者、バシバシバシバシという音が次第に大きくなる。角居は、「よしっ」と気合を入れる。それに催促されたわけではないが、ターフビジョンにスターターの歩く姿が大写しになった。手拍子をかき消すような「うわぁぁぁ~っ!」とい大歓声が湧き、高らかにファンファーレが鳴った。 観衆はまるで示し合わせたように、声を潜め、一瞬の静寂に包まれた。 ☆ウオッカ 2004年4月4日、北海道静内町(現・新ひだか町)カントリー牧場で生産。栗東・角居勝彦厩舎からデビューし、2歳時の阪神JFを皮切りにGⅠを7勝。特に牝馬として64年ぶりに勝利した07年日本ダービーは競馬史に残るレースで、いまだに「史上最強牝馬」の呼び声も高い。19年4月1日、蹄葉炎のため、安楽死の措置が取られた。通算成績=26戦10勝(うちGⅠ7勝含む重賞8勝、海外4戦0勝)。主な勝ち鞍は07年日本ダービー、08年天皇賞・秋、09年ジャパンカップ。08&09年JRA年度代表馬。
旭堂 南鷹