「傷つけるならパパの腕をやりなさい」リストカット繰り返した娘は立派に育った 父娘の10年【#あれから私は】
東日本大震災から3月11日で10年を迎える。毎日新聞は400人を超える震災遺児と孤児、その保護者たちにアンケートを送り、遺児と孤児181人と保護者163人から回答をもらった。それぞれの「10年」の営みが見えてくる返事を寄せてくれた遺(のこ)された子どもやその家族を記者が訪ねた。 【写真特集】2011年3月11日 あの日を写真で振り返る 「私にとって震災で何が一番きつかったかというと、娘の部屋でカッターナイフと作業用ロープを見つけた時ですね」。私のレンタカーの車内で、助手席に座るかっぷくの良い男性はぽつりと言った。芳行さん(仮名)とは仕事帰りの午後6時、宮城県内の道の駅の駐車場で待ち合わせた。 35歳の時、津波で妻を失い、小学3年と5年、中学2年だった3人の娘を育ててきた。「完全なママっ子だった」という三女の早紀さん(同)は中学生の時にリストカットを繰り返す。シングルファーザーの芳行さんはどのように向き合い、どんな言葉をかけたのか。「震災の直後に落ち込む子もいれば、1年後、3年後、あるいは5年後になってから来る子もいる。三女はそっちのタイプだったんでしょうね」。そう言うと、ヘッドライトの明かりが次々と流れていく幹線道路に顔を向けて、振り返った。
部屋で見つけたカッターナイフとロープ
海に近い自宅は津波で大規模半壊となり、震災から5年後に内陸部に家を建てて、仮設住宅から移り住んだ。 中学2年生になった早紀さんは夏休み明けの始業式こそ出席したものの翌日から学校を休むようになった。「『学校、行けよ』と言っても『体調悪い』って返事するから、『じゃあ病院行けよ』って言って『わかった』とは答えるんですが、結局、病院にも行かないんですよね」。10日間ほど休んだ後に一度だけ登校したが、再び行かなくなってしまった。 「朝、いくら体を揺すっても起きないし、自分の部屋の鍵を閉めるようになって、ごはんも家族と食べなくなって部屋の前に置いておくようになりました」。1学期までは休むことなく登校していた。芳行さんが「何があったの?」「学校でいじめにあってるの?」と聞いても「いや、あってない」と力ない言葉が返ってくるだけだった。 このままずっと不登校になってしまうのではないか。心配していた芳行さんは、長女から「腕を見たらすごい切れていたよ」と聞かされる。確かにその年の夏、早紀さんは長袖ばかり着ていた。「ちょっと、手見せてよ」と言って、早紀さんの腕を見ると、両手にたくさんの傷があった。 早紀さんの部屋の奥まで入ったことはなかったが、ソファの横にカッターと作業用のロープを見つけた。「何に使うの?」。問いただすと、「学校で作り物するから」。芳行さんは「そんなわけないでしょう」と言って、急いで取り上げた。