復興へ光、恩返しに道開く 釜石 選抜高校野球 /1
当初は出場の喜びなく 複雑な思い
釜石の初戦。一塁側スタンドから生徒らに交じって声援を送ったOB会長の小国晃也さん(42)は、第68回大会に初出場(当時は釜石南)したメンバーだった。釜石市に隣接し、津波の大きな被害を受けた大槌町の職員でもある。 「同級生だけでなく、復興支援で大槌に来てもらった各自治体の職員の方とも一緒に応援した。小豆島の方もいて、みんなが一つになれるいい機会だった」。 ともに復興を目指した各地の人が集う。町の職員として復興を担っていた小国さんにとって「2度目の甲子園」も思い出深い大会だ。
だが、ナインは当初21世紀枠での出場を喜んでいたわけではなかった。前年秋の県大会で準優勝。20年ぶりに東北大会に駒を進めた。現在も母校の釜石で監督を続ける佐々木偉彦(たけひこ)さん(37)は「決勝まで勝ち進み(一般枠で)センバツに行こうと選手に話をしてきた。初戦の東北(宮城)戦で惜敗したのが悔しくて……」。二塁手の奥村颯吾さん(22)も「21世紀枠は実力だけでなく、その他のことが選考に加味される。複雑な思いだったが、プレーで実力を認めてもらおうと話し合っていた」という。 当時、釜石市では災害公営住宅建設や土地のかさ上げなど復興に向けたスケジュールが遅れ、完成を待ちきれずに花巻市など内陸部で自宅を再建する人も出始めていた。一方で、仮設住宅に残らざるをえない被災者もいて、被災直後の苦しみとは違った重苦しい空気が街を覆っていた。 同校も親が犠牲になった部員や行方不明のままの部員がおり被災地の出場校として注目を集めていく。当時の部長で、現在は盛岡三野球部監督の小谷地太郎さん(39)は「最初は注目されて喜んでいた生徒たちも、取材が多くなるにつれて重荷に感じていたよう」。しかし、選手たちは「新聞やテレビに取り上げられることで遠くにいるOBらに頑張っている姿を伝えられる。注目されることをありがたく思って対応しよう」と話し合うようになった。「短い期間で成長したなと感じた」と振り返る。 小国さんが働く大槌町では昨年3月、仮設住宅の供用が終了し、入居者全員が再建した自宅や災害公営住宅に転居して新たな生活を始めている。もちろんすべてが震災前に戻ったわけではないが、小国さんは「震災時を考えると、今のような生活が送れるようになるとは思ってもみなかった」。言葉では簡単に表せないほどの10年間。 「後輩たちには元気をもらった。私自身も高校時代、甲子園のグラウンドに出た瞬間の感動は今でもはっきりと覚えている。その自信と誇りは今の生活に生かされている」【中田博維】
被災地
釜石だけでなく21世紀枠では東日本大震災の被災地から、学校やグラウンドなどが被害を受けた宮城の石巻工(84回大会)、福島のいわき海星(85回大会)が選出されている。地震発生の12日後に開幕した83回大会では、創志学園(岡山)の野山慎介主将による「人は仲間に支えられることで大きな困難を乗り越えることができると信じています」といった選手宣誓が大きな反響を呼んだ。震災から10年。今大会の宣誓は、被災地にある仙台育英(宮城)の島貫丞主将。「被災した人たちに勇気と感動を与えられる宣誓を」と意気込んでいる。