“伏兵”の満塁弾から張本、大杉へ……。メジャーにもない快挙の中の快挙とは/プロ野球20世紀・不屈の物語【1971年】
歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。
通算5本塁打の男
20世紀の昔、プロ野球に作道烝という打者がいた。打撃タイトルはなく、選手としてのキャリアは10年。1964年シーズン途中のプロ入りだったから、厳密には10年に満たない。入団したのは東映。現在の日本ハムで、当時の本拠地は東京にあり、東京オリンピックのために駒沢球場を“追い出された”ことで、神宮球場を経て後楽園球場に入ったばかりだった。水原茂監督の下、61年に初優勝、日本一を成し遂げた東映だったが、その後は優勝から遠ざかり、67年オフに水原監督が退任すると、激動期に突入していく。そんな時期に現役生活を送っていたのが作道だった。 チームが日拓となった73年が作道のラストイヤー。ただ、シーズンを通してレギュラーを務めたことはなく、主な役割は代打で、通算179試合の出場で48安打、5本塁打にとどまった。シーズン100打席を超えたのは自己最多の66試合に出場した70年のみ。これもブレークにはつながらず、その後は出場機会を減らしていった。だが、その翌71年に、それまでも、それからも、誰も見たことがない快挙の口火を切ることになる。 5月3日のロッテ戦。舞台は東京スタジアム。この連載でも紹介しているが、ナイターでは東京の下町に明るく浮かび上がった“光の球場”だ。ただ、この日はデーゲーム。“光の球場”は真価を発揮することなく、14時1分に試合が始まった。ロッテは偵察メンバーとして“マサカリ投法”の村田兆治を五番で出場させていたが、すぐ得津高宏にスイッチ。その得津が3回裏に先制の3ランを放つ。続く4回表には東映も先頭で六番の萩原千秋がソロで1点を返すも、ロッテも四番の江藤慎一が6回裏にソロ。早くもリードを3点に戻した。 東映は張本勲、大杉勝男のクリーンアップが沈黙を続けたこともあり、試合はロッテのペースで進む。8回裏にも三番のロペス、続く江藤と2者連続弾でロッテが2点を追加。勝負ありと思われた9回表、ようやく“暴れん坊”たちが目を覚ました。先頭で三番の張本は4打席連続で凡退したが、一死から四番の大杉がソロを放つと、そのまま一挙5点を奪って同点に追いつく。 まだ物語は始まっていない。ただ、二死一、二塁の場面で、ロッテの勝利でゲームセットと思われた場面があった。代打の末永義幸が遊ゴロ、一走が二封……というところで、東映の田宮謙次郎監督が抗議。二塁手の山崎裕之が落球していたのだ。名手として知られた山崎のミスも珍しいが、このレアなアクシデントが、さらにレアな快挙の呼び水だったのかもしれない。土壇場で同点にされたロッテは、9回裏を三者凡退で終え、あっさりと試合は延長戦に。勢いを失いたくない東映だったが、10回表、先頭の大杉が凡退。続く五番のクリスチャンは左前打も、4回表にソロを放った萩原が凡退して、早くも二死に。それでも9回裏からマスクをかぶり七番に入っていた種茂雅之が二塁打。ロッテは満塁策に出て、続く末永を敬遠する。東映はリリーフで好投していた皆川康夫に代えて、打席に作道を送った。