下北沢発、フィンランド経由……あなたは、異次元に行けると言われたら?『ホテルメドゥーサ』解説(レビュー)
文庫巻末に収録されている「解説」を特別公開! 本選びにお役立てください。 (解説:瀧井 朝世 / ライター) ここではないどこかへ行きたい。 誰でもそんな思いを一度くらいは抱いたことがあるのではないだろうか。 本作に登場する人たちも、ここではない場所を求めている。彼らが目指すのはフィンランド。というのも、かの国の森のなかに異次元の世界へ行けるホテルがあるらしいのだ。そう、地球上のどこかではなくてまったくの別世界へ行けるというのだから話がぶっ飛んでいる。そこがどんな場所でどんな暮らしが待っているのかも分からず、しかもいつ戻ってこられるかすら分からないとしたら、あなただったらそれでも行きたいと思う? 不思議な体験のチャンスを描くこの『ホテルメドゥーサ』は、二〇一八年に『くらげホテル』という題名で単行本が刊行され、文庫化にあたり改題された。視点人物は四人。何かしらの理由により、ホテルメドゥーサを訪れる日本人たちだ。 矢野多聞、四十歳。『占い喫茶 ルルドルーム』の店長。ひょんなことから(たぶん)殺人を犯してしまい、無我夢中でこの地にやってきた。それ以前から、自分の人生に空虚感を抱いていた男でもある。 梅林希羅々、二十五歳。幼い頃から面倒を見てくれた祖母には「他人に感謝される人間になりなさい」と言われてきた。しかし何をやってもうまくいかず、自分にまったく自信が持てずにいる。 燕洋一、もうすぐ五十五歳。昨年病で亡くなった妻から、自分が「そっちの世界」に行ったら会いに来てほしいと言われており、そんな妻のスマホのメモに残されていたのが、このホテルの名前だったという。 久遠典江、五十歳。小学五年生の時に、この星のことが知りたくて未来から来たという女の子と出会い、「あなたはたぶん、来るようです」と予言されている。現在、家族との関係は良好だが、好奇心を抑えられずにやってきた。 と、彼らが抱える事情と動機はさまざま。決して「今の人生が嫌だ」などといった後ろ向きな理由とは限らないのが特徴だ。みな、本当に異次元へ行けるかどうか半信半疑でもある。では、もしも本当に行けるとしたら……。 この物語は、それまでの人生を捨てて別の場所で幸せになる、といった内容ではない。さらにいえば、安易な「自分探し」が目的の旅の話でもない。もちろん「自分探し」を全否定するつもりはないが、この言葉は時と場合によって違和感を抱かせる。というのも、「自分探し」をしたくて何かしらアクションを起こしているのも「自分」であって、探さなくてもすでにそこに「自分」がいるじゃないか、と思うから。「自分探し」ではなく「なりたい自分探し」なら納得できるのに、と。この四人のなかで、この旅を「自分探し」だと言われそうな人物は希羅々だが、彼女はこんなことを言う。 「居場所を変えるんじゃなくて、自分自身を変えないといけないのに、そういう努力もできない」 彼女は、居場所が変われば人生が一変するとは信じていない。探さなくても自分はすでにここにいて、その自分を変えなくてはいけないと思っているのだ。それが彼女の賢さであり、それでもここにやってきた、というところに彼女の切実さがにじみ出ている。他にも、この物語は安易なパターンや耳に馴染んだ言葉をそのまま取り込まず、再考を促すような示唆に富んでいる。 たとえば、希羅々が祖母に言われ続けた「他人に感謝される人間になりなさい」という言葉。なんとも善良な教えに聞こえるが、矢野はふたつの点を指摘する。 「感謝される人になれって、けっこうおこがましいよな? 俺って感謝されているわーって実感しているやつなんて、思い上がった人間で、俺は好きになれないけど……」 「でもばあちゃんの言葉に縛られすぎないほうがいい。その人のために言ったことがその人を苦しめる呪いにもなるからさ」 言われてみれば確かにそう。祖母の言葉を守ろうとすればするほど、感謝されることが行動の目的となってしまうし、人に親切にしても感謝されなければ満足できなくなりそうだ。そして、どんな善良な言葉でも、場合によっては相手を苦しめることだってあるのだ、と気づかせてくれる。 あるいは、「後戻りできない」という言葉はネガティブな意味合いを感じさせるが、同じく矢野はこんなことも言う。 「俺の人生、正直やり直したいことばっかりだけど、もしも本当にやり直しがきいたら、全然前に進めなくてどこにも行けなくなりそうだもん。(中略)後戻りできないからこそ、今、俺はここにいるってこと」 後戻りできないという、人生の一回性を肯定的にとらえさせてくれる考え方だ。また、これはちょっと深読みになるが、「逃げる」という言葉について、燕がこんなことを言う。 「矢野くん、もっと逃げよう」 「逃げなかったら、君は檻の中に入ることになるかもしれないんだろう」 もちろん矢野の場合、罪を犯したのなら罰として檻の中に入ることは当たり前である。だがこの言葉は、少し違った意味としても響いてくる。これまでにいた場所が嫌で、そこに居続けることが檻の中にいるように感じるなら、逃げてもいいのではないか、と。もしも今、逃げたくても逃げたら駄目だ、負けだ、などと自分を苦しめている人がいるとしたら、この言葉がそんなふうに響いてほしい、とも思うのだ。 また、悲観的なものの考え方に一石を投じる言葉もある。「この世界は不安や悲しみでいっぱいの人たちで溢れている」と考えた希羅々が、その直後にふと「本当の本当は、違うのかもしれない」と思うのだ。この世にある殺人事件や戦争や食料難といった辛い出来事を羅列した後で、「そっちのほうが世界のごく一部なのかもしれない」「そう思いたくて、わたしはここに来たのだろうか」、そう彼女は気づく。この世を憂うあまり、世界の美しさや善き部分が見えなくなる、あるいは、見ないふりをしてしまうことはあるだろう。実際、世の中に辛い現実があるのは事実で、それに対して配慮や援助は必要であり、無視することはできない。しかしだからといって、世界のすべてを否定しなくたっていい。善き部分、美しい部分を信じることはできるはずだ。