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忘れられない後部座席のキスシーン タクシー運転手がバックミラー越しにみた夫婦愛

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NIKKEI STYLE

《連載》バックミラーのいとしい大人たち

夜のタクシー運転手はさまざまな大人たちに出会います。鉛筆画家の安住孝史(やすずみ・たかし)さん(82)も、そんな運転手のひとりでした。バックミラー越しのちょっとした仕草(しぐさ)や言葉をめぐる体験を、独自の画法で描いた風景とともに書き起こしてもらいます。 【鉛筆画でみる】あの日の東京、懐かしい街角

■秋晴れの「矢切の渡し」にて

秋の風が吹くと、僕は伊藤左千夫の小説「野菊の墓」の一節を思い出します。「真(まこと)に民子は野菊の様な児(こ)であった」。主人公の政夫と従姉(いとこ)の民子の淡い10代の恋。2人の永久(とわ)の別れの場所が江戸川の「矢切の渡し」です。 昭和50年代の終わりごろのことですが、タクシーで東京都内の蔵前橋通りを走っていると、江戸川区の小岩付近で年配の夫婦に呼びとめられました。柴又帝釈天(葛飾区)の裏にある有名な料亭が目的地です。ステッキを手にした70歳くらいの旦那さんに続き、少し年下にみえる奥様が乗ってきました。品のいい洋服姿の2人です。 車が動き出すと、奥様がすぐに話しかけてきました。「『矢切の渡し』の歌、はやってますよねぇ」。「つれて逃げてよ……」という歌い出しのあの演歌。当時は細川たかしさんが歌い、大ヒットしていました。実は本当の行き先も料亭ではなく、そこから目と鼻の先にある矢切の渡しでした。奥様が渡し舟に乗りに行こうと発案されたようです。 お話し好きな奥様のペースにすっかり乗せられ、僕も「『野菊の墓』が好きで何回も訪ねています。夜の雰囲気もいいんですよ」などと話しました。小説のことなどは奥様もわかっていたと思いますが、興味深そうにしてくれます。旦那さんはだまっているのですが、安心して奥様の言うことに身をまかせている感じで、なんとなく楽しそうです。いい夫婦だなあと思いました。 15分ほどで江戸川の土手に到着すると、先に降りた奥様に少し支えられるようにして旦那さんも降ります。でも、腕を組んだり、手をつないだりはしません。背筋を伸ばしてステッキをつく旦那さんと、少し離れつつも夫を気遣い、それでいてうれしそうに歩く明るい奥様。明治か大正はじめのお生まれでしょうし、ベタベタはしていないのですが、仲睦(むつ)まじいとはこのことだろうと思いました。お昼すぎ、秋の江戸川はとてもいい天気です。

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