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[寄稿]「30年の慰安婦運動」まるで終わったかのように評価するのはやめよう(後)

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ハンギョレ新聞

「慰安婦運動を語る」専門家リレー寄稿(6) キム・ヨンヒ|延世大学国文科教授・延世大学ジェンダー研究所長

(前編より続く)  「ハルモニ」の言葉を聞け、彼女の言葉を尊重しろという人たちが真っ先に「代理発話」に出た。「ハルモニ」の意思は何なのかを自らの言葉で説明し、評価し、その中に込められた真意が何なのかを教えようとした。自分だけが、あるいは自分たちだけが「ハルモニ」の言葉に込められた本音を最も正確に知っていると自負する人々は、金魚鉢の中の魚を上から下に見下ろす人のように、事態を観照する位置にいた。金魚鉢の中で起こることは、その人々にとって”自分のこと”ではなく、金魚鉢の中で起こることに対する責任も彼らにはない。過ちは”あいつら”の責任であり、”私”は倫理的な人間であるため、彼らは倫理を装うあらゆる修辞を動員して「当事者の言葉を尊重しなければならない」と言う。彼らにとっては当事者でない位置から当事者の言葉を尊重し、当事者の話を代理発話することが”倫理”なのだ。  しかし私は、言葉の前に解釈が存在していたと思う。どんな言葉が出てくるかの前に、この言葉がどのように解釈されるか、その運命が決まっていた。イ・ヨンスさんとユン・ミヒャンさんの言葉がある前に、「正義連」と「日本軍慰安婦」問題に連帯してきた人たちの言葉が出てくる前に、この言葉はすでに構築された陣営のスペクトルの中で各自の位置を持つようになる計画の下に包摂されていた。この計画は正確に他者化の暴力を具現化する。誰かを規定し、ある偏見に固めて攻撃しようとする時に真っ先に実行することは、対象を縮小して固定することだ。そして、その縮小され固定された属性は、対象の固有のものとして本質化され、その他のすべては他者化の暴力によって、先に述べた規定された内容に還元される。このようなとき、事態は単純化され、文脈の厚さは薄っぺらく平面化される。  イ・ヨンスさんとユン・ミヒャンさんは異なる陣営によって攻撃のターゲットとなった。互いに異なる立場に立ったように見えるが、彼女たちは結局、他者化の暴力の前でいずれも攻撃の対象であるだけで、その攻撃を正当化する口実は彼らの”堕落”だ。いつ誰によってかはわからないが、イ・ヨンスさんは純粋な被害者と仮定され、ユン・ミヒャンさんは純粋で倫理的な活動家と仮定された。彼女たちは生きている人間ではなく”対象”であるため、この”純粋”の境界を越えた瞬間、”堕落”と”不純”のあらゆる汚名を着せられ、攻撃の対象となった。この”純粋”から外れた”堕落”は、攻撃の理由であると同時に攻撃を正当化する根拠でもある。  イ・ヨンスさんとユン・ミヒャンさんから明らかになった”純粋”から外れた”堕落”の兆候は何だったのか。私はそれが、政治権力に向けた欲望を表わしたことだと思う。しかし、両者はこの30年間、政治活動を続けてきた。制度圏の中に入って政治をするのは場を移すことに過ぎず、「日本軍慰安婦」を取り巻く全ての議論は最初から最後まで幾重もの政治を遂行することに他ならない。被害者が”運動”に乗り出し、この”運動”を通じて政治的な場に突入することは、どの社会でも珍しいことではない。市民社会団体で活動していた活動家が制度圏の政治に進入するのも同じだ。今、韓国の国会議員や地方自治体の長、地方議会の議員のうち、こうした”運動”の経歴を足がかりに政治に乗り出した人は数え切れないほど多い。  ある研究者が私に、韓国社会で“男性”がすることは「肯定的一般化」の対象になりやすいのに対し、”女性”がすることは「否定的一般化」の対象になりやすいと言ったことがある。”男性”たちがする非常に小さなことも大きく価値を評価され肯定的な方向に一般化するのに対し、”女性”たちがすることは極端な否定的評価を受け、反対方向に一般化される傾向が強いということだ。イ・ヨンスさんとユン・ミヒャンさんはすでに特定勢力を代理表象する存在となった。人々が「ナヌムの家」と「正義記憶連帯」を区分できないのは、無関心で無知なためではなく、区分したくもなく、区分する必要がないからだ。彼女たちにとって「ユン・ミヒャン」と「正義連」と「ナヌムの家」は区別する必要がない対象だ。このようにして水曜集会に出た数知れない人々や、「ユン・ミヒャン」ではない活動家たちや「正義連」へと続いた30年の歴史、そしてこれらすべての人々の時間が、簡単に消される。ユン・ミヒャンさんは一つの典型になり、「堕落した活動家」と「非倫理的な86世代の政治勢力」と「日本軍慰安婦問題に実践的連帯を見せた女性」らを代理表象することになった。  この議論の中で、ある人たちはユン・ミヒャンさんが国会議員の資質を備えているか検証すると乗り出し、ある人たちは日本軍慰安婦運動の歴史を評価しようと言ったりもする。しかし、大多数は沈黙している。言うことがないからではなく、 どんな言葉もこれら陣営の構図の中で簡単に使い捨てられるパイになることが、あまりにも自明だからだ。老人の貪欲、大邱(テグ)、横領、5軒の家、家族、黒幕、韓日関係、交流と和解、裏切りと道具化などの言葉が、この30年間の歴史を、その時間のほんの少しでもつかみ取ることができるだろうか。その時間は、ユン・ミヒャンさんのものでも、イ・ヨンスさんのものでも、「挺対協」や「正義連」でもない。イ・ヨンスさんもユン・ミヒャンさんも、この運動の流れの中にいる一人にすぎず、彼女たちは他のすべての活動家がそうであるように、過ちと限界を持ちうる。「正義連」もまた同じだ。今、「正義連」を非難し、その団体名の前に付けるあらゆる修辞の言葉をそのまま韓国社会のすべての社会運動団体の前につけたとしても、全くおかしくないだろう。  過ちや問題はどこにでも誰にでもあるから、なあなあにして流そうという話をしたわけではない。私は「正義連」に対する批判的議論も、かつての日本軍慰安婦問題をめぐる運動の歴史についての評価も、全部必要で有意義だと思う。国会議員になったのだから、政治家のユン・ミヒャンさんに対する評価も必要だと思う。さらに1987年6月抗争後の市民社会運動の歴史を振り返ることもできればいいと思う。また、活動家の位置づけと役割、当事者性の問題についても生産的な議論が必要だと考える。しかし、今この夥しい”盤”に群がっている人々が、本当にこうした問題に関心があって一言ずつ言葉を加えているのかは分からない。  私も、私が加えたこの一言の効果が怖い。インターネットのコメントが怖いのではなく、私がわからないことについて、わかっているかのごとく言ってしまうのが怖く、私が言った言葉がこの談論の中でどのような政治的効果を生み出すか見当がつかないのが怖い。しかし、怖さの中でも一言を切り出したのは、沈黙の理由を言いたいからだ。この半世紀、”ハルモニ”たちの沈黙を生んだ暴力は、依然として省察されないまま続いている。「私の方がよく分かっている」と先を争って言い出す人々の後ろで、数知れない人たちが言うべきことを言えずに沈黙している。私はこの沈黙を代理することはできないが、私の気持ち推して慎重に察するとしたら、明らかに人々の口を閉ざさせる苦痛と怒りがあるだろうと思う。いつもとてつもない苦痛の跡を残した最初の暴力は消され、その苦痛の跡のためにちゃんと考えてちゃんと休めなかった人々が互いを非難することが繰り返されるということ、そして最初から暴力を傍観したり共謀した人々が、この争いを勝手に評価し裁断することが繰り返されるという事実に、私には我慢できない。何よりも今、論争に参加した人々の多くは、まるで「終わった戦いを評価するかのように」発言したり、「戦いが終わった後の結果をめぐって争う人々を非難するかのように」発言するが、沈黙する人々にとってこの戦いはまったく終わっていない。沈黙を破ってはっきりと言うが、それは30年前も、今も、完全に”現在”だ。 キム・ヨンヒ延世大学国文科教授・延世大学ジェンダー研究所長 (お問い合わせ japan@hani.co.kr)

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