Yahoo!ニュース

IDでもっと便利に新規取得

ログイン

時を戻す「月のケーキ」、あなたは食べますか? 残酷でユーモラスで、真実がちりばめられたファンタジー集

配信

本がすき。

『月のケーキ』東京創元社 ジョーン・エイキン/著 三辺律子/翻訳 月のケーキを作りましょう。材料は桃にブランディにクリーム、タツノオトシゴの粉に、グリーングラスツリー・カタツムリをひとつかみ。満月の夜にぴったり99回混ぜ合わせて、月が見えなくなった夜に食べるまでのお楽しみ。特別な材料と特別なシチュエーション、そして特別な者しか作れない、とびっきりのケーキ!何のために作るのかって?それはね… 少年トムはある過ちを犯し、どこか気味の悪いウェアオンザクリフという村にやってきた。村には彼の祖父が暮らしていて、行き場を失ったトムはここしか来る場所がなかったのだ。小さな家々がけわしい丘の中腹に崖にへばりつくように並び、獰猛な狼の住処である危険な森を抜けなければ辿りつけない。霧に包まれた海の向こうには島がぽつんとあって、そこからひと月に一度、月の出ない夜に一艘の船が桟橋に来ては戻っていく。だれが乗っていて、何のためにやってくるのか。その姿を見たものも理由も知れない不気味な船。ここに住むのも、薄気味悪く陰湿なひとたちばかり。こんなところに、わざわざ好き好んでやって来る人なんていない。 遠い昔、トムの祖父は想い人を追って、身重の祖母とともにこの村にやって来た。けれど、ある日突然、彼女は海に消え帰ってこなくなった。その日から祖父は海をぼんやりと見つめている。やがて祖母は亡くなり子と孫はどこかへ消えたが、それでも変わらず祖父は海を見つめている。まるで、失われたひとの影を見つけることで、救われる何かがあるかのように。 月のケーキを作ることは「希望」のように感じられた。なんせ、このケーキは“時計の針をもどす”というすばらしい魔法を宿したケーキなのだ。トムが過ちを犯す前、祖父が愛するひとを失う前、この村の住人たちが、ここに住みつくようになる前。そう、みなが“本物”だった時。健全な身体にぴかぴか光る魂を宿していた、この村にやって来るずっと前のこと。そこにさえ戻れれば、すべてが解決する。 トムを含む三人の子どもたちが材料を集めた。トムは危険な森の中までいって、グリーングラスツリー・カタツムリを採ってきた。村のはずれに暮らす不気味な女性が、子どもたちの集めてきた材料を混ぜ合わせ、月のケーキを作った。パン屋にじっくり焼いてもらう間、村には何かが発酵しているような、カビ臭い匂いが充満していた。 月が消えた10日後の夜、焼きあがりしっかりと冷まされたケーキをついに食べる日が来た。でも、トムはその誘いを断った。なにか嫌な予感がして。女の人には散々嫌味を言われたけれど、トムはこのケーキが本当はどういうものなのか、分かっていたのかもしれない。 その夜、大きな落雷があって、ケーキを食べるために集まったひとびとは跡形もなく消え去った。翌朝、トムが海辺に駆け付けたときは大きな黒い穴だけが残り、ひとも、生まれてしまっていただろう呪いも、もちろんあのケーキも、海がすべてを洗い流していた。 トムは、そう遠くない未来にこの村を出ていくだろう。トムの直感はトム自身を守り、この場所には似つかわしくない光を放つようになっていたから。 失ったものは取り戻せない。それは時間も然り、ひとも然り。失ったものを思い嘆き悲しみ、その場所に居座り続けることは意外に簡単なことだ。思考を停止し、心を動かさないようにするのは、むずかしいことじゃない。すべてを諦め、放棄するだけでいいのだから。 でも、本当のしあわせを望むのなら、暗い場所から勇気をもって飛び出さなければならない。外の世界はこわい。色や光、香りや音が満ち溢れる世界には様々な感情が生まれては消え、そのたびに心は強く揺さぶられる。悲しみは海の底より深く、絶望は胸を絞り上げ、痛みを伴うこともあるだろう。けれど、それは想像もつかないような喜びや、心を内側から照らす眩いほどの光も存在する世界で生きる、しるしのようなものなのだ。その世界へ“戻る”と決めたなら、もう引き返すことはできない。これからは自分の心の向く方向を道しるべにし、あらたな道を一歩ずつ歩んでいくしかない。頼れるのも尋ねるのも、たったひとり、自分自身だけだ。 現実と物語の境目など本当はないのが、私たちが生きる現実の世界なのかもしれないと思う。月のケーキが闇を抱えることで光を促し、魔女たちが辛らつな言葉で真実を啓示する、魔法の力が働く世界は、今この瞬間も世界のどこかで息づいているのかもしれない。そこでは、ドラゴンが大きな翼を揺らしながら自由に空を舞い、ゴブリンはいつでもひとの隙を狙いいたずらを仕掛けているのだ。 歴史は繰り返される。ひとは、何度も同じ過ちを繰り返す愚かな生き物だ。だからこそ、物語の中で右往左往するひとを見て考えなくちゃいけない。私がいま立っている場所は、このひとたちと同じだろうか。それとも違う場所で、自分なりのしあわせを感じられているだろうかと。物語の中に真実の言葉を見つけたなら、時間をかけてゆっくり心に染みこませよう。それは本当に進むべき道を見つけた時、頼もしく確かな重みを持ったコンパスに姿を変え、長い旅に寄り添ってくれるだろう。 この物語は、残酷で時にユーモラスで、真実が散りばめられたファンタジーの宝箱。その箱からは色鮮やかでまばゆいほどの光が、とめどなく溢れている。

横田かおり

本の森セルバBRANCH岡山店 1986年、岡山県生まれ。担当は文芸書、児童書、学習参考書。 本を開けば人々の声が聞こえる。知らない世界を垣間見れる。 本は友だち。人生の伴走者。 本がこの世界にあって、ほんとうによかった。

【関連記事】