《広島豪雨災害2年》100年に一度の豪雨にさらされた街どこまで復興できたか
2014(平成26)年8月20日の午前1時から4時までの3時間、広島市安佐南区と安佐北区の局所的な範囲で、同じ場所で積乱雲が次々と発生する“バックビルディング現象”により、過去観測史上最大の300ミリ近い猛烈な雨が降った。 「避難指示」と「避難勧告」 何が違う? その結果、市内では土石流107箇所、崖崩れ59箇所の土砂災害が発生し、特に被害が大きかった安佐南区と安佐北区では77名が死亡、重軽傷者44名という過去30年で最大の大災害となり、その復旧と行方不明者の捜索は連日大きく報道された。
あれから2年。被災した市民の生活と、土石流の爪痕は、その後どうなったのか。 災害発生当時と今の状況、そして現在も暮らす市民をレポートする。
傷痕
両親が猫と一緒に住む、安佐南区緑井7丁目の実家が被災した事を三村香織さん(34)が知ったのは、当日の早朝にあった父からの電話だった。レスキュー隊の救助活動が行われる中、泥水と瓦礫の山を掻き分けて辿り着いた実家の周辺は、見たことが無いほど混沌としていた。
10年程前に引っ越したばかりの頃から、お裾分けを何度も持って来てくれた、気さくで優しかった近所の人達。そんな人が多く亡くなった事を両親から知らされ愕然とする。三村さんの20メートル北にある佐々木さんの家では、両親が亡くなり、20代の息子さんだけが生き残るという悲劇が起こっていた。
三村さんの父親の話によれば、尋常でない物音に目が覚めた息子さんは「危ないから外へは出るな」という両親の制止を聞かずに外へ出た直後、最初の土石流に流された。頭と足に骨折の大けがをして泣き叫ぶ彼を近所の住民達で救助した数分後…。再び襲った大きな土石流で、残っていた両親は家ごと流され、二人とも亡くなったという。 「近所でも有名な親思いの良い子で、親を心配して自分がなんとかしようとしたのだと思う」。香織さんは沈痛にそう話した。
災害後も苦難は続いた。香織さんは、両親を仮住まいの避難所から引き取り、壊れたクルマのガソリンや破れたガス管、夏の猛暑で傷んだ食べ物の異臭が立ちこめる中で、泥だらけになった家を再建した。 しかし、やっと住めるようになった矢先の2014年12月、行政から『立ち退き』を申し渡される。「もう一度、何かあって死んでもいいから、今の家で暮らしたい」という両親を説得し、引っ越し先を探したが、国が提示した立ち退き料は震災後の地価が基準となり、購入時の3分の1程度の金額。今度は経済的な困難が待ち受けていた。 あれから2年。両親も転居先でやっと落ち着きを取り戻した。香織さんもまた、両親とは別の場所に住みつつも、両親の経済的支えになろうと、懸命に働く日々を送っている。