賀川浩さん死去、99歳、W杯10大会取材のサッカージャーナリスト、元大阪サンスポ編集局長
サッカージャーナリストの賀川浩(かがわ・ひろし)さんが5日、神戸市内の病院で亡くなった。99歳。老衰とみられる。90代になっても執筆を続け、現役最年長の現役サッカー記者として活動していた。 【写真】昭和37年当時の日本代表の寄せ書きを前に思い出を語る「日本サッカーの父」デットマール・クラマーさんと賀川浩さん 賀川さんは数年前から老人ホームで暮らしていた。杖の助けを借りながら自力で歩行していたが、今年10月に体調が悪化し、入院。ベッドに伏せる時間が長くなり、食事も満足に摂れない状況が続いていた。 賀川さんは自身の膨大なサッカー関連蔵書を神戸市立中央図書館に寄託し「神戸賀川サッカー文庫」として公開。10月14日に10周年の記念イベントが開催されたが、体調不良で欠席していた。その後、快方に向かい退院したが、この日朝、生活していた施設で体調が急変し、搬送された神戸市内の病院で亡くなった。 甲子園球場が誕生した1924(大正13)年に生まれた賀川さんは神戸一中(現神戸高)からサッカーを始め、神戸大でもプレー。所属した大阪サッカークラブで天皇杯準優勝を経験した名プレイヤーでもあった。第2次世界大戦中は、軍隊に召集され、志願して航空隊に入った。戦闘機乗りになったが特攻直前、終戦を迎えた。引き揚げ後、52年に産経新聞社(大阪)に入社。得意分野のサッカー取材を始め、ヤンマーに入社した釜本邦茂ら日本代表の選手や協会関係者に密着した。日本サッカーの父と呼ばれたドイツ人指導者、デットマール・クラマー氏と親交が深く、強化されて68年のメキシコ五輪で銅メダルを獲得した日本代表に丹念に取材した。64年の東京五輪では閉会式の原稿を書いた。ドイツ留学を考えていた当時中学生の岡田武史氏(元日本代表監督)から相談を受け、進学を進めたこともあった。フィギュアスケートなども取材した。 サンスポの編集局次長だった74年、西ドイツで開催されたワールドカップ(W杯)を初めて取材した。会社を1カ月空ける代わりに自身のコラムにスポーツメーカーの広告を付け、取材費は自費、長期出張中、事件事故に巻き込まれた時は労災扱いにしてもらうことを会社にお願いして実現した。86年のメキシコ大会では準々決勝のアルゼンチン-イングランドを現地取材。マラドーナがハーフウエーライン付近でボールを持ったとき「何かが起こりそうだ」と直感しカメラを持ち、歴史に残る5人抜きドリブルを記者席から撮影した。 サンケイスポーツでは編集局長(大阪)に就任すると、阪神タイガースに特化した1面づくりを主導し、シェアの大幅アップに大きく貢献した。