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特攻艇マルレ。「お前たちの棺おけ」という上官の言葉は心に迫るものがあった。特攻隊に志願。海上挺進51戦隊は今津海岸に。松林に船を隠して出撃を待った〈証言 語り継ぐ戦争〉

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南日本新聞

 戦中は鹿児島出身の母コウやきょうだいと朝鮮・全州に暮らした。1944(昭和19)年、17歳で陸軍船舶特別幹部候補生隊(香川県小豆島)に入隊した。4月に1期生として入るはずだったが、猩紅(しょうこう)熱(ねつ)にかかり、9月の2期生となった。  45年1月に船舶整備教育隊(広島県坂町)に転属。このころ、近くの金輪島で陸軍の特攻艇マルレを造っているうわさを聞いた。「お前たちの棺おけを作っている」と話す上官の言葉に、心に迫るものがあった。若い自分たちが特攻せざるを得ないと、死生観がかたまっていた。5月には特攻隊に志願した。  特攻艇マルレは、秘匿名「連絡艇」の頭文字から、そう呼ばれた。ベニヤ板で造られた1人乗りの5メートルほどの船。250キロ爆雷を積む。敵艦に近づき、爆雷を切り離して逃げる想定だが、ぶつかって死ぬつもりでいた。  軍施設の廊下に張ってあった本土決戦訓を見たときはショックを受けた。敵軍が日本の女性や子どもを先頭に進軍してきたら、「日本人を先に撃て」とあった。自問したが、母親が頭に浮かび、自分にはできないと感じた。一人で死んだ方がいいと、特攻志願により傾いた。

 人の命を軽視するのが戦争だ。守らなくてはいけないはずの国民の命を、平気で捨てるような作戦をとるのが戦争だった。  45年6月には海上挺進(ていしん)51戦隊(特攻)に移り、広島県江田島で訓練を始めた。  7月17日には出戦のために、宇品駅(広島市)を出発。秘密部隊のため、行き先は知らされなかった。最終的に51戦隊は福岡市今津海岸に展開し、マルレを松林の中に隠して、出撃を待った。  ある日、どういう訳か同僚の両親が寺に訪ねてきた。戦隊長も面会を許した。その後、その同僚から「本気で死ぬ気なのか」と聞かれた。そのつもりだと答えると、「やっぱりそうなんだ」と力なく言った同僚の姿が忘れられない。いつ出撃するか分からない極限の状況で、葛藤を抱く隊員もいた。  玉音放送は雑音で聞き取れず、後に日本が負けたと聞いた。まだ「敵に突っ込むんだ」という隊員もいたが、自分はそういう気持ちにはなれなかった。

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