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大久保嘉人が語る東京五輪世代 「久保、堂安らのレベルは高いけど...」

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オリンピック出場がサッカー人生に与えた影響第1回:2004年アテネ五輪・大久保嘉人(後編) 【写真】東京五輪で見たい「世界の美女フットボーラー」 ◆大久保嘉人はリーガ・エスパニョーラに「喧嘩腰」で挑んだ>>  2004年のアテネ五輪、日本はグループリーグを1勝2敗とグループB最下位で終えて、決勝トーナメント進出を果たすことができなかった。  大久保嘉人(当時セレッソ大阪。現在は東京ヴェルディ)は、個人としては3試合に出場し、2得点を記録した。とりわけ、グループリーグ最終戦のガーナ戦では、勝利につながる貴重なゴールをマーク。難しいヘディングシュートでのゴールで、見ている者に強烈なインパクトを残した。その結果、アテネ五輪が終わったあと、大久保のところに海外からのオファーが届いたのである。 「アテネ五輪から戻ってきて、『さあ、これからが大事だな』って思っていた。それによって、自分が変わると思っていたので、早く海外に行きたいと思っていた。  そうしたら最初、ドイツ(のクラブ)からオファーが届いた。う~ん......って感じで考えていたら、次にマジョルカからオファーが来た。(希望していた)スペイン(のクラブ)だし、『すぐに行く』って返事をしたね。  これらのオファーが来たのは、間違いなくアテネ五輪でゴールを挙げたからでしょ。あの2ゴールにおかげで、自分の思うとおりに道が拓けていった。五輪という大会の大きさ、そしてそこで活躍することの重要性がわかるよね。だから、五輪(という舞台)は、アピールしないといけない場やと思う」  2004年11月、マジョルカへの期限付き移籍が決定した大久保は、翌年1月にスペイントップリーグでのデビューを果たす。その後、負傷で戦列を離れることになったが、翌2005-2006シーズンもマジョルカでプレーした。  しかし、先発での出場機会はほとんどなかった。大久保は、ある問題に直面していた。

「言葉の壁。スペインに行く前は『(どこであろうと)サッカーなんだから、なんとかなるやろ』って思っていたけど、甘かった。スペインに行って、語学学校とかに通っていれば、4カ月ぐらいで相手が言っていることは、耳に入ってくるようになるし、単語もわかる。でも(自分からは)言葉が出てこない。会話ができない。  サッカーでは(周囲に)要求するし、(周囲から)要求される。監督からの指示や戦術面での細かい話もある。試合に出られなくなった時、監督から『おまえは、技術的には試合に出てもおかしくないけど、コミュニケーションに問題があって、その辺のバランスからベンチにいる』と言われた。  その際、『そうじゃないだろ』とは思わなかったね。たしかに『そりゃ、そうだ』って、普通に思っていた」  大久保がアテネ五輪以降に描いていたプランは、スペインに行くまでは順調だった。だが、そこで思うような結果を残せず、目標のひとつだった2006年ドイツW杯出場は叶わなかった。そして、2005-2006シーズン終了後、セレッソ大阪に復帰した。  それでもその後、ヴィッセル神戸で活躍し、再び海外へ。わずか1シーズン(2008-2009シーズン)限りだったが、ドイツのヴォルフスブルクでプレーした。さらに、2010年南アフリカW杯では、日本代表の主力として奮闘。日本のベスト16入りに貢献した。  以降、神戸、川崎フロンターレ、FC東京、ジュビロ磐田でプレー。川崎時代には、3年連続得点王に輝いた。現在は、今季完全移籍した東京ヴェルディに在籍。国見高の先輩、永井秀樹監督のもと、チームのJ1昇格に力を注いでいる。  そんななか、LINEグループを作ったというアテネ五輪世代の交流が、最近活発になっているという。 「最初、松井(大輔)さんから(アテネ五輪世代で)LINEのグループを作ろうよって話があって、オレとか、那須(大亮)とかがつなげていって、かなりの人数が集まった。これまでにもう、2回も食事会をやっている。オレは、2回とも行けなかったけどね(笑)。

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