旅先でひとりの人間に還りさびしさの本質に触れる
「さびしい町」というフレーズには心のツボを刺激するような魅惑的な響きがある。いったい何がそんな気持ちにさせるのだろう。 目次には二十ほどの地名が並んでいる。どれも「さびしい町」をトーチのように掲げて記憶庫をさまよううち浮かんできた、著者が旅したり、暮らしたりした町の名だ。 「さびしい町」は「ひなびた町」と近しい関係にあり、いい感じにさびれた場所には心を落ち着かせる作用がある。奄美大島の名瀬、信州上田、台湾の台南などはそれに当たり、読めばすぐにでも行ってみたいような気持ちになる。 だが、究極の「さびしさ」とは、町の雰囲気もさることながら、それまでの人生を宙づりにするような出来事が絡むことにより、もたらされるのではないか。アメリカの西海岸から東を目指して中古車で移動する途中、アリゾナ州のタクナという町で車に不具合が生じる。だが、修理屋には交換部品がなく、何もない町のモーテルで四日も部品の到着を待つ。宙づりのロープが引き上げられる音が聞こえそうなこの状況こそ、「さびしい町」の主成分であるのかもしれない。 人は不安に取りつかれやすい生き物だ。ふだんは仕事や人間関係でそれを紛らわせているが、旅先ではどこの誰とも知れないひとりの人間に還り、さびしさの本質に触れる。 でも、旅の最中はそれを深々と味わえないかもしれない。このまま部品が来ないかもしれないという現実的な不安と隣り合わせなのだから。 ならば「さびしさ」を「身に染みるほどの深さと鋭さにおいて感受」するのは、その旅を回想したときなのではないか。記憶のなかで「さびしさ」は「この世に生を享(う)けたことの意味が閃光のように開示される、恩寵の瞬間」としてよみがえる。そのひとときを慈しむような著者の筆に乗って、読者もまた自分の「さびしさ」を懐かしく振り返るだろう。 [レビュアー]大竹昭子(作家) おおたけあきこ1950年東京生まれ。作家。小説、エッセイ、批評など、ジャンルを横断して執筆。小説に『図鑑少年』『随時見学可』『鼠京トーキョー』、写真関係に『彼らが写真を手にした切実さを』『ニューヨーク1980』『出来事と写真』(共著)など。朝日新聞書評委員。朗読イベント「カタリココ」を開催中。[→]大竹昭子のカタリココ 新潮社 週刊新潮 2021年4月1日号 掲載
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