息子に「クワタ」と名付けた親日家 日米通算183勝の助っ人右腕は
看板に偽りなしのピッチング
巨人で在籍2年間と決して長くなかったが、「優良助っ人」として30年以上経った現在でも日本で愛されている右腕がいる。日米通算183勝をマークしたビル・ガリクソンだ。 ガリクソンは77年6月のMLBドラフトでエクスポズに1位指名(全体で2番目)で入団。80年に10勝5敗で頭角を表すと、82年から6年連続12勝以上をマーク。球速以上に威力の感じる直球、抜群の制球力でアウトを積み重ねた。現役バリバリのメジャー・リーガーが巨人に電撃入団を発表したのは87年オフだった。 巨人はエースとして長年活躍していた江川卓が87年限りで突然の現役引退を表明。新しい大黒柱として白羽の矢を立てたのがガリクソンだった。80年後半はバブル時代の絶頂期。当時の日本人選手の最高年俸は落合博満の1億3000万円だったが、29歳と全盛期のガリクソンに2年契約総額330万ドル(約4億2900万円)の破格の好条件を提示した。20勝の期待を込めて背番号「20」に決まった。 ガリクソンはプロ入り後の21歳のときに、1型糖尿病と診断されている。左手の指先から血を抜いて糖の量を検査し、自分で注射器を持って腹にインスリンを打つのが毎朝の日課だった。自身と同じ境遇の糖尿病患者への慈善活動にも熱心で、CMなど年俸以外の収入は全額寄付していた。現役引退後の98年に日本糖尿病協会はガリクソンの活動に敬意を表し、小児糖尿病患者を表彰する「ガリクソン賞」を制定している。 看板に偽りなし。メジャーで中4日の登板間隔で長年稼働していた抜群のスタミナに加え、練習態度も真面目で模範的な存在だった。来日1年目の88年、東京ドーム1年目で初登板から3連続完投の4連勝で4月の月間MVP受賞と最高のスタートを切る。同月27日のヤクルト戦(神宮)で黄金ルーキー・長嶋一茂にプロ初アーチを浴びたことも話題に。その後は白星から遠ざかった時期もあったが、夏場に盛り返して26試合登板で14勝9敗、防御率3.10。14完投はリーグ最多だった。 2年目の89年は春季キャンプ中に左ヒザの半月板を損傷。米国に手術を受けて復帰したが、シーズン終盤は右足太もも肉離れで再び戦線離脱する。15試合登板で7勝5敗、防御率3.65。来日1年目より成績を落として退団した。