家族という名の足かせ。虐待を受けた者は、将来、加害者になってしまうか?
父親からの暴力に怯えていた子ども時代。 もし私が母親になったら、絶対に暴力を振るったりしない。 そう思っていたけれど──。 自分のうちに潜む暴力性や加害性について、あたそさんがハフポスト日本版に寄稿しました。 【文:あたそ 編集:榊原すずみ/ハフポスト日本版】
突然、家に帰ってこなくなった父
離婚や一人親という言葉には、一般的には負のイメージが付きまとう。「両親の離婚は子どもがかわいそう」「一人親ではちゃんとした子に育たない」。それが、私が思春期を過ごした時代の、ごく普通のありふれた感覚だった。離婚なんて、あり得ない。親それぞれの我慢が足りないだけ。お互い、きちんと話し合いをすればわかる。それも、よくある感覚のひとつだ。 あの頃の私だって、似たような考え方を持ち合わせていた。両親が離婚して苗字が変わった同級生に対して、「可哀想だな」と純粋に思っていた。 しかし、私の両親も離婚した。「妹の義務教育が終わるまで」という約束も待たずに。 私が高校3年生の頃、ほとんど口も利かず、顔を合わせることのなかった父親が家に帰って来なくなった。しばらくしてから「そういえば、離婚したから」と、食器を洗う母親にあっさりと告げられたのだった。 実際にその言葉を聞いたときの私は、不幸でも可哀想でもなんでもなかった。予想ができたにも関わらず、安心したのだ。心から。もうこれで、父の存在に怯えながら生活する日々が終わると思った。母の泣く姿も、「殴られるかもしれない」という選択肢が頭の中に浮かぶことも、なんとなく気まずいリビングの雰囲気も、すべて過去になる。そう思うと、ほっとした。あのときの気持ちや両親が離婚してからの生活は、決してかわいそうなんかではない。 きっと、今後の人生であれ以上の不幸を経験することも、辛い気持ちや惨めな思いをすることもないだろうと思う。
暴力の被害にあった人が加害者側になってしまうのが、わかる自分
「虐待された子ども、家庭内暴力を受けた子どもは、自分が親になったときに子どもに暴力を振るってしまう可能性が高い」という調査結果をどこかで見たことがある。この事実を知ったとき、私はなぜだろうと思っていた。もし私が母親になったら、絶対に暴力を振るったりしない。同じような惨めな思いは絶対にさせない。それは、私が実際に両親から日常的に暴力を受けていたからこそ抱く思いだった。 前提として、自分より弱い存在である女性や子どもに手を上げるなんてあり得ないことではあるが、なぜ自分が経験した辛い出来事を繰り返してしまうのか。とにかく、不思議だった。 しかし、大人になった今、暴力の被害にあった人が加害者側になってしまうのも、なんとなくわかる自分がいる。 私はいつも、後になってから気が付く。例えば、家に帰るまでの電車のなかや、シャワーを浴びているとき、ふと頭のなかに空白ができたとき、飲み会の席やさりげないコミュニケーションのなかで、誰かを傷つけてしまったことがはっきりとわかる瞬間がある。もしかしたら、取り返しのつかないことを言ってしまったのかもしれない。そう気が付いたときは大抵遅くて、身動きが取れない。実際に、疎遠になってしまった人だっている。私は、大事なタイミングをいつも見逃しているのだ。