自由の身になったブリトニー・スピアーズとメディアの関係 ドキュメンタリー『ブリトニー対スピアーズ』から考える
金銭的にもキャリア的にも成功している成人女性が、ハンバーガー1つ買いに行くのに許可を得なければならない……。交友関係を徹底的に管理され、親しくなった人と遊びに行くことすら許されない。 【写真】ドキュメンタリーで紐解かれるブリトニー・スピアーズの後見人裁判 まるで囚人の生活ですが、これは世界的な歌姫 ブリトニー・スピアーズの身に起こったこと。しかも数カ月ではなく、13年間にわたって行われてきたのです。 2021年11月12日(現地時間)に成年後見人制度が解除され、ついに自由の身となりましたが、一体なぜそんなことになってしまったのでしょう。 ブリトニー・スピアーズと同年代で、彼女の衝撃のデビューアルバム『ベイビー・ワン・モア・タイム』から活躍を応援していた筆者が、Netflixドキュメンタリー『ブリトニー対スピアーズ -後見人裁判の行方-(原題:Britney vs Spears)』を見ながら振り返っていきたいと思います。 ■ブリトニーと成年後見人制度 『ブリトニー対スピアーズ -後見人裁判の行方-(原題:Britney vs Spears)』は、ブリトニー・スピアーズに成年後見人制度が適応されてからと、後見人である父ジェイミーを外すための裁判を追ったドキュメンタリーです。去年話題になった配信動画『Framing Briteney』がブリトニーの人生を悲劇的に描き、#FreeBritenyムーブメントを後押しした一方で、本作は、関係者にインタビューを重ね、ブリトニーの周囲で何が起こっていたのか、彼女がどんな境遇にいながらも必死に成年後見人制度を解いてもらうように活動してきたのかにフォーカスした構成になっています。 ドキュメンタリーを見ればわかるのですが、彼女は人権のある一人の人間として扱われていません。成年後見人制度が必要だと判断されたのは2008年ですが、そもそも成年後見人制度とは、認知症や知的障害、精神障害といった判断能力が不十分な人に不利益が発生しないようにと、補助や補佐する人をつける目的としています。 歌を歌い、振り付けを覚え、巨額の予算を投入したライブステージやMVを次々とこなした社会的地位の高い女性に使われたのでしょう。それは、「認知症」と判断されてしまっていたからだと、本作では証拠の書類を公開して説明しています。 また、成年後見人制度により、仕事のスケジュールから財産、人付き合いや子どもとの接触、メディア向けの発言に関してまで全てをコントロールされてきたことや、妊娠の自由さえ奪われてしまったこと、制度を利用して奴隷のように働かされ、得た報酬を自由に使うことが許されなかった理不尽さ、彼女にどうにか手を差し伸べようとした人たちがことごとく排除されていった事実にも触れているのです。 ■なぜ彼女は追い込まれたのか なぜ彼女は「認知症」と診断されたり、精神が不安定だと判断されるようになったのでしょう。作品では触れられなかった部分を、筆者が知っている範囲で補足として書いていきたいと思います。 ミッキーマウス・クラブのメンバーとして人気だったブリトニー・スピアーズが世界中に知れ渡ったのは1999年1月12日にリリースしたデビューアルバムの『ベイビー・ワン・モア・タイム』。「大ヒット中」と書かれたタワーレコードのポップの前には、低予算を感じさせるワントーン背景のなかにちょこんと座った垢抜けない少女のCDジャケットが入った直輸入版CDと透明感と幼さを全面的に打ち出したジャケットの国内版CDが並んでいたのが、いまでも鮮明に思い出されます。 少女と言っても過言でないほどあどけない笑顔と、垢抜けないファッションが純粋さを感じさせましたが、彼女の純粋なイメージは1999年の4月15日にリリースされた音楽雑誌 ローリング・ストーンの、ショッキングピンクの背景にテレタビーズの人形を抱えて下着姿で受話器を耳に当てる表紙写真でぶち壊されることとなりました。 エロやセックスを売りにした歌手の先駆者といえばマドンナですが、マドンナよりもはるかに若かったティーンエイジャーが元気で明るいエロを売りにしたことに衝撃を受けました。振り返ってみれば、あの表紙は性に開放的なメッセージというより、女性側が受け身でい続けることへの違和感や自分の体に責任を持つといったポジティブな意味も込められていたのでしょう。しかし、親世代は、同年代の子どもたちに悪影響を及ぼすとブリトニー・スピアーズを警戒するようになりました。 メディアと世間の目がネガティブになっていったのは、2001年のアルバム「Britney」をリリースしたころ、彼女がティーンから成人になっていく過程で「I'm Not a Girl, Not Yet a Woman「や「I'm a Slave 4 You」を歌っていたくらいからだったと記憶しています。そして、それを決定づけたのがインシンクのボーカルでミッキーマウス・クラブからの恋人だったジャスティン・ティンバーレイクとの破局だったのでは。ジャスティン・ティンバーレイクの「Cry Me A River」で、破局の原因がブリトニーの浮気にあるらしいということが噂され、ブリトニーの浮気を咎めるインタビューが行われるなど、彼女に対するマイナスイメージは加速していきました。 それからというもの、歌よりも私生活が注目されるように。ラスベガスで幼馴染と酔った勢いで結婚式を行い55時間で離婚したことや、バックダンサーだったケビン・フェダーラインとの電撃結婚は、彼女を「世界の歌姫」から「お騒がせシンガー」というポジションに変えていきました。 子どもが生まれると、まるで全人類が小姑になったかのように育児の良し悪しが取り上げられ、抱っこの仕方や母親としてのファッションなど、ありとあらゆることがパパラッチされ、責め立てられました。ブリトニーが幼児を膝に抱いたまま車を走らせた際は、それがパパラッチに追われて逃げたのが原因だとわかっていても「チャイルドシートを使わないで車を暴走させた無責任な母親」と書かれました。 初めての育児で右も左もわからない状態だった彼女に「ダメな母親」のレッテルを貼り付けたメディアは、彼女の精神が徐々に崩壊していく様子をどう感じていたのでしょう。彼女がいく場所にはパパラッチが待ち構え、一挙手一投足が撮影され、悪意を持って流される……。そんななか、彼女は夫であるケヴィン・フェダーラインとの離婚を表明し、泥沼の親権争いに発展。親権争いとパパラッチに追われるストレスで限界を超えたある日、彼女はカリフォルニア州のヘアサロンに入り、バリカンで丸坊主にしました。そして次に起こったのが、追いかけ回していたパパラッチの車を傘で襲撃した事件。2008年には、子どもたちを抱えて家に立て篭もり、警察がくると自殺を仄めかしたことで辺りは騒然となりました。一連の出来事が報道され、精神が崩壊しかかっていると判断された彼女は精神病等に2度入院しました。 ■メディアの非道な報道 2006年から2008年のメディアのブリトニーに対する扱いはひどいものがありました。ゴシップ報道が加熱した2007年は、歌よりも私生活ばかりが取り沙汰されました。 バッシングの声は止まず、コメンテーターはブリトニーの精神状態について好き勝手にコメントしていました。ブリトニーを題材にした「ブリトニーが失ったもの」というクイズが行われ、「夫」「髪の毛」「正常な考え」といった答えが用意されたことも。 ネット上にはブリトニーの自殺をカウントダウンするサイトまで登場していたとされています。そんなころ、彼女はメディアが自分からネタのおこぼれをもらうために躍起になっていることを歌詞に書いた「Gimme More」をリリースしています。その後、当時19歳だったChris Crockerさんが「25歳の母親が幼い子どもを2人も残して死ぬことを期待しているなんて信じられない」と涙ながらに訴えた「Leave Brotney Alone」という動画をアップロード。ところが、「アンナ・ニコール・スミス(オーバードーズにより39歳で死亡)の二の舞にしたいのか。ブリトニーだって一人の人間だ」といった彼の訴えも、笑いのネタとして消費され、メディアを含めた多くの人がキワモノ扱いしたのです。 2008年に精神病等に入院した際には、「入院先でブリトニー・スピアーズが自殺」というチェーンメールが流行しました。同じころに、彼女が自殺してしまうのではないかと心配する記事が掲載されるように。 風呂場にはブリトニー本人が書いたとされる生きることの苦しさや死が苦しみから解き放ってくれる解決策のように感じる旨が書かれた遺書らしきものがあったらしいと報じられるほど、彼女の精神が不安定であることは誰の目から見ても明らかでした。 彼女を取り巻く状況が悪化するなか、筆者が1番驚いていまでも忘れられないのが、「マスコミはすでに彼女の死亡記事を用意しているようだ」と、あるコメンテーターがいったことです。これは籠城した後の話で、茶化すような内容ではなく、メディアのスタンスに疑問を呈するような形での発言だったはずです。しかし、どういう形であれ「自分の死亡記事が用意されている」なんて、ブリトニーの耳に入ったらどう感じるでしょうか。 筆者は、当時カナダのバンクーバーに移り住んだばかりで、友人もいなく孤独と季節鬱に悩まされていいたため、自分の状態をブリトニーの孤独や境遇に重ね合わせて考え、心底同情しました。 ■成年後見人制度は人々を安心させたが…… だから、2008年に成年後見人制度が適応されたときは、これで彼女の身の安全が確保され、守ってもらえるだろうと安心しました。しかし、事実は正反対だったことがドキュメンタリーでは明かされています。 気持ちを高揚させる薬を飲まされ、日に10時間もカウンセリングを受けさせられ、ラスベガスに滞在して週末にショーをしていたころは、4年間で2日間しか外出できなかったそうです。 番組で自由に発言することも許されず、オーディション番組『Xファクター』の審査員を務めていたときは、元婚約者であるジェイソンを同席させることが条件となっていました。これは番組出演が彼女の心理的ストレスになるからだと考慮された結果のようですが、初期のころの発言が当たり障りのないもので番組側が期待したようなキレが感じられなかったと評価していることからも、後見人が発言を制限していたからだと考えられます。 『ブリトニー対スピアーズ -後見人裁判の行方-(原題:Britney vs Spears)』では、ラスベガスでのショー「Piece of Me」での「歌以外でマイクを使うのは違法に感じる」「勝手にしゃべっているのは違法みたいで変に感じる」という発言を取り上げています。 ブリトニーの後見人制度に違和感を感じた人は少なくなかったはず。手を差し伸べて助けようとした人がいたことも、本作のなかで明らかになっています。しかし、過去13年間でその願いや努力が叶うことはありませんでした。 ■ブリトニーとメディア そして時は流れ、ブリトニーの後見人制度は局面を迎えることに。 『Framing Britney Spears』の配信をきっかけに、世間が39歳の才能溢れる勤勉な女性が自由を奪われ奴隷のように働かされていることに、疑問の声を挙げ始めたのです。そしてその声はメディアが大々的に報じることで膨れ上がっていきました。彼女を追い詰めたメディアと、そのメディアが報じたニュースを消費した世間が、彼女の戦いを後押しする形になったのです。 その後の結果は、すでに伝えた通り。11月12日に成年後見人制度は解かれ、ブリトニー・スピアーズは自分の人生を取り戻すこととなりました。勝利のきっかけとなった、2021年6月23日の審問でのブリトニーの発言は力強く、涙なしに聞くことができません。 メディアは彼女の生活と精神を崩壊させました。しかし、後見人制度のもとで自由を失った彼女に手を差し伸べようとしたのも、彼女をそばで知るメディアや業界の人間でした。そして、彼女を窮地から救い出す後押しをしたのもメディアであるという事実がなんとも皮肉です。 11月12日以降、ブリトニー・スピアーズは自由を謳歌する様子をInstagramで頻繁にアップデートしています。彼女がパパラッチに追いかけられ始めたころは、SNSのように自分から発信できるプラットフォームはありませんでした。これからはメディアのフィルターがかからない彼女の本心を聞く機会が増えることでしょう。
中川真知子