【レジェンドの素顔10】“教育ママ”の厳しく熱い指導に幼少期のコナーズは従うが1つの信念は曲げなかった│前編<SMASH>
大一番におけるスーパースターたちの大胆さや小心をのぞいていくシリーズ「レジェンドの素顔」。前回に引き続き、ジミー・コナーズについて取り上げよう。 過去、家庭環境に恵まれてテニスプレーヤーへの道を選んだ人は多い。特に、アメリカ生まれのプレーヤーにその例は顕著にみられる。ジミー・コナーズもまた、そうした“幸運組”の一人である。 【動画】1982年ウインブルドン決勝、コナーズ対マッケンローのハイライト しかし、彼を導いたのは父親でもなく、母親だった。ジミーは母親によって鍛えられ、あるいは、母親によって手なづけられていったのだ。そのことは、ジミーの成長にどのような光と影をもたらしたのだろうか。 ◆ ◆ ◆ ジミー・コナーズの少年期を辿った場合、母親グロリアの存在の大きさを第一に挙げなければならない。グロリアの引いた熱いレールの上をジミーは突っ走った。俗にいえば、グロリアは典型的な「教育ママ」だったのである。 ただし、日本の「教育ママ」のほとんどは息子を良い大学に入れることだけに心血を注ぐが、グロリアの場合は方向が違った。彼女は息子がテニス史に残るプレーヤーになるためなら、どんな犠牲を払ってもいいとさえ考えていた。実際、払った犠牲は少なくなかった。 しかし、グロリアは恵まれていた。息子ジミーは、彼女の予想をはるかに上まわる能力の持ち主だったのだから――。そんな幸運な気分に浸れる母親など、万に一人もいないだろう。 母親になら、まるで飼い慣らされた犬のように従順 ジミーは、1952年にイリノイ州のセントルイスで生まれた。父親は、通行料金所の係官をしていて、余暇にはゴルフを楽しんだが、テニスには無頓着だった。そのため、ジミーのテニス人生には、まったく顔を出してこない。母親のグロリアとは実に対照的な存在だ。 グロリアは、男子が生まれたらぜひテニスプレーヤーにさせようと考えていたので、ジミーの誕生をとても喜んだ。そして、自らコーチの役目を買って出た。 彼女のテニス歴は古い。ジュニア時代には全米で13位になっている。1940年代にはちょっとは名の知れたプロのプレーヤーだったし、レッスンプロとしてのキャリアも長かった。 コート上のグロリアは、いつも厳しかった。ジミーが甘いボールを返そうものなら、容赦なく幼い彼の顔面を狙い打ちした。 「ジミー、いったんコートに入れば、母親だってこれくらいのことをするんだよ!」 そう言って、グロリアはジミーをにらみつけた。ジミーは泣きながらボールを追いかけたことが何度もあった。