明智光秀をささえた家臣たち~明智秀満、斎藤利三【にっぽん歴史夜話】
文/砂原浩太朗(小説家) 織田信長の家臣といえば、ただちに前田利家や柴田勝家の名が浮かぶ。豊臣秀吉なら加藤清正や石田三成、徳川家康には本多忠勝、井伊直政といったところか。明智光秀(?~1582)の場合、本能寺の変後、山崎の戦いで秀吉に敗れ家が絶えたため、これら三英傑にくらべると家臣たちに関する史料も多くは残っていない。が、彼も秀吉とならぶ織田家の出世頭。臣下にめぐまれることなく功を重ねられるわけもないだろう。どのような人びとが光秀に仕え、そして殉じていったのか。 動画はこちら→信長家臣で、最初に一国一城の主となった光秀、その坂本の地を歩く【「麒麟がくる」光秀の足跡を辿る】
実在しなかった「明智左馬助」
光秀の配下として、まっさきに挙げられるのが「明智左馬助光春」。光秀のいとこにあたり、「湖水渡り」(後述)の逸話で名高い。ところが歴史上、彼の実在は確認されていない。血縁関係などの履歴も、大半は軍記物語の創作と見られている。 ただ、これに相当する人物はいる。その名は「明智弥平次秀満(ひでみつ)」。もと三宅姓だったが、光秀の娘を妻にして、明智姓をあたえられた。同時に養子として一門へむかえられたという説もある。弥平次の前身については、職人の子とする史料もあるが、裏づけはとれていない。また、三宅氏に関しても、美濃・尾張に同姓の土豪がいたことが知られているだけで、弥平次とのつながりは不明である。光秀につかえた時期も明らかではないが、丹波攻め(1575~79。丹波は現在の京都府・兵庫県)に従事したのはたしか。本能寺の変の前年ごろには、福知山(京都府福知山市)城主となっている。 本能寺襲撃の際は先鋒をつとめたが、光秀から安土城を託されたため、山崎の戦いには参加していない。あるじの敗報に接し、明智氏の本拠・近江(滋賀県)坂本城にむかう。かつては、このとき弥平次が安土城に火を放ったとされていたが、現在は信長の次男・信雄がしたことというのが定説になっている。
「湖水渡り」の伝説
さて、坂本入城に際し、弥平次は「湖水渡り」という逸話を残している。秀吉方に城入りを妨害されたため、愛馬へまたがったまま琵琶湖をわたり、堂々入城を果たしたと伝わる。真偽は不明だが、事実とすれば、浅瀬を通り迂回して城へ入ったということだろうか。いずれにせよ、この程度の伝説は鷹揚に受け入れ、彼に花を持たせてやりたい気がする。 入城はし遂げたものの、勢いにのる秀吉方に抗し得るはずもない。弥平次は、城にある名物重宝のたぐいを寄せ手へゆずった後、光秀の妻子やおのれの妻を手にかけ自害をとげたという。ただし、光秀の妻は、本能寺以前に病没している可能性が高い。 光秀の娘といえば細川ガラシャが有名だが、弥平次の妻となった女性はその姉にあたる。当初、やはり織田の家臣である荒木村重の嫡子に嫁いだが、村重が信長に背いたため離別、弥平次の妻となったのだった。明智家へもどったのが1578年であるから、長くて数年の夫婦生活だったことになる。弥平次は1580年の9月から翌年4月までのあいだに明智姓をたまわったという傍証があるから、結婚も同時期とすれば、さらにみじかい。 娘を嫁がせるということは、弥平次が光秀から絶大な信頼を得ていた証しである。一門に準ずる待遇も受けただろうから、このあたりのいきさつをヒントに、「光秀のいとこにして腹心・左馬助光春」なる人物が作りだされていったのではないか。