“職場放棄”で「戦力外通告」から復活のケースも 現役引退を撤回し、さらに飛躍した“名選手”たち
引退決意の山崎武司が38歳にしてHR王になれた理由
監督と衝突して2軍落ちし、一度は引退を決意したのが、オリックス時代の山崎武司である。 移籍2年目の2004年、山崎は4月下旬に地元・名古屋で行われた西武戦に多数の知人を招待していたことから、伊原春樹監督に「頑張りますんで、スタメンで使ってください」と直訴した。 伊原監督は4月27日の第1戦では7番DHで起用してくれ、山崎も3打数2安打と結果を出した。だが、翌28日はスタメンに山崎の名前はなかった。面目丸潰れとなり、内心不満で一杯の山崎に伊原監督は言った。「そんな状態で試合に入れないだろう」。山崎も「ああ、無理ですね」と答えると、そのまま試合をボイコット。間もなく2軍に落とされた。 この時点で「野球を辞めよう」と決意した山崎は、家族に「今年で辞める」と伝え、9月から職場放棄して海外旅行に出かけた結果、当然のように戦力外通告を受けた。 「オレ、来年から野球できねえんだな」と寂しさを感じていると、8歳の長男が「パパ、何で野球辞めるの?」と尋ね、「もうちょっとやってほしい」と背中を押した。 息子が野球に興味を持ってくれたことがうれしく、「子供のためにもう少し頑張ってみようかな」と思いはじめた矢先、翌年から新規参入する楽天・田尾安志監督から代打要員として声がかかり、入団が決まる。 「戦力外となった04年のオフに東北楽天ゴールデンイーグルスが誕生したこと。そして、息子の願い。ふたつの奇跡が、山崎武司の闘志に再び火を灯してくれた」(自著「さらば、プロ野球 ジャイアンの27年」宝島社)。 それから3年後の2007年、野村克也監督の「相手の配球を読んで打て」のアドバイスで主砲復活をはたした山崎は、自己最多の43本塁打を記録し、38歳にしてNPB史上2人目のセパ両リーグ本塁打王の快挙を達成した。
引退セレモニーまでした後に現役続行を決意
一度は現役引退を発表し、引退セレモニーまで行われたのに、一転現役続行を決意し、入団テストを経て、新天地に移ったのが、川相昌弘である。 巨人時代の2003年8月20日の広島戦で、エディ・コリンズの記録を76年ぶりに更新する、通算521犠打の世界記録を達成した川相は、この金字塔を手土産に21年間の現役生活に終止符を打ち、翌年から1軍守備走塁コーチになるはずだった。 引退試合となった9月14日のヤクルト戦では、5回の3打席目に中前安打を放ち、“有終の美”を飾ったいぶし銀の職人は、試合後に行われた引退セレモニーで場内を1周、スタンドのファンに何度も頭を下げた。 ところが、同26日、コーチに指名してくれた原辰徳監督が突然辞任を表明したことをきっかけに、運命が大きく変わる。 堀内恒夫監督の新体制では、ポストも2軍コーチに変わっており、一連の騒動の中で自分自身を見つめ直した川相が悩んだ末に出した結論は「自由契約になって他球団で現役を続ける」だった。 その後、中日・落合博満監督から「ああいう選手がいれば助かる」とラブコールを送られた川相は、秋季キャンプでテストを受け、合格。2006年まで現役を続け、2度のリーグ優勝に貢献するとともに、通算犠打数も「533」まで伸ばした。 久保田龍雄(くぼた・たつお) 1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。 デイリー新潮編集部
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