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加藤清正、山中幸盛、佐久間盛政…あの武将はどんな初陣だったのか

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PHP Online 衆知(歴史街道)

「早く戦に出て、華々しい手柄を……!」。逸る気持ちで出陣する者もいれば、敵におびえ、前に進めない者も──。後に名を残す武将たち、それぞれの初陣。 ※本稿は歴史街道2020年6月号特集2《戦国の名将たちの「デビュー戦」》より一部を転載したものです。 楠戸義昭(歴史作家) 昭和15年(1940)、和歌山県生まれ。立教大学社会学部を卒業後、毎日新聞社に入社。学芸部編集委員などを歴任後、作家活動に入る。『戦国武将名言録』『城と姫』『戦国武将「お墓」でわかる意外な真実』『激闘! 賤ヶ岳』など、著書多数。

加藤清正~秀吉の許しを得られず、隠れて出陣

加藤清正は豊臣秀吉のもとにあって、少年の時から秀吉夫人おねの台所飯で育ち、衣服もあてがわれた。 それは幼い頃に父が病死し、生活が苦しかったため、母伊都が秀吉の母なか、もしくは妻おねのどちらかと親戚関係にあったことから、出世街道を走り出した秀吉に息子清正を託したからだった。 清正は15歳で秀吉を烏帽子親に元服し、幼名の夜叉若から虎之介清正を名乗るようになる。秀吉は清正の才能と勇気を愛して可愛がった。 初陣は元服一年前の天正3年(1575)5月、長篠の戦いだった。だがそれは「密行出陣」と呼ばれる、秀吉の許しを得ていない出陣だった。清正は秀吉に従軍を願ったが、まだ若すぎるとして許されなかったのである。 あきらめきれない清正はこっそり身支度を整えて軍勢にまぎれ込み、戦場へ出る。戦闘が始まると、秀吉の目を盗んで武田軍に攻めかかり、馬上の敵3人を斬り落とし、さらに勇将として知られる座光寺与市と槍で渡り合い、相手を負傷させたのだ。 この活躍に秀吉はびっくりし、密行出陣を諫めるどころか、大いに褒めた。そして益々目をかけ、清正が19歳の時に120石を与えた。 ただし、この戦いは初陣とは認められず、初陣は20歳の天正9年(1581)、秀吉が鳥取城を兵糧攻めにした時とされている。 秀吉は攻めるにあたり、蜂須賀正勝に裏門付近の探索を命じ、清正に同行を命じた。近くに森があり、そこに伏兵が潜んでいることを見抜いた清正は、正勝に注進するが、正勝は心配するなと馬を先に進めた。 すると思った通り、20人ばかりが槍を手に手に襲い掛かってくる。清正は腰の半弓をとると、素早く放って敵をひるませ、馬から飛び降りて先頭の一人を槍の餌食とすると、正勝も敵の1人を斬り殺した。 敵は恐れをなして逃げ去り、正勝は「清正は若輩ながら目も心も働く」と秀吉に報告した。喜んだ秀吉は100石を加増した。 賤ケ岳での七本槍の功名は、この2年後。清正は、秀吉の最も信頼する腹心に成長したのである。

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