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天下分け目、勝利呼ぶ山 関ケ原・桃配山

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岐阜新聞Web

◆壬申の乱で大海人皇子、1600年は家康が布陣  不破郡関ケ原町の「桃配山(ももくばりやま)」。そこは420年前の関ケ原の戦いで、東軍を率いた徳川家康が最初に本陣を置いた場所だ。実は古代日本最大の内乱「壬申の乱」でも勝利者側の陣地となった山だった。古代と中世、日本を二分する「天下分け目の決戦」で2度とも勝利を呼び、2人の"天下人"を生み出した縁起の良い場所と言えるだろう。東西の分け目にある美濃国なればこそ起きたエピソードだ。  南北を山に挟まれた関ケ原は、古くから交通の要衝だった。桃配山は東端にある。関ケ原町歴史民俗資料館、不破関資料館(いずれも関ケ原町)の両館長を務める飯沼暢康さんによると「今は貧弱な山に見えるかもしれないが、昔はもっと高く、大きくせり出した山で、関ケ原一帯が見渡せたはずだ」という。  その名の由来は、672年の壬申の乱にさかのぼる。天智天皇の後継を巡って、大友皇子と大(おお)海人(あまの)皇子(おうじ)が、国内を二分して争った"元祖天下分け目"の決戦だ。西濃地域に領地があった大海人皇子は、現在の関ケ原町野上付近を本営とし、東国を掌握するとともに、西から攻めてくる大友軍に備えた。小高い桃配山に陣を敷き、要の砦(とりで)としたとみられる。  陣では村人から大海人皇子に山桃が献上され、とてもおいしかったので皇子が兵士に配って士気を高めたことから「桃配山」の名が付いたと伝わる。飯沼館長は「村人たちは栗なども積極的に献上したようだ。この地方の『山の幸』が兵士の英気を養ったに違いない」と話す。  玉倉部邑(関ケ原町玉付近)での激しい戦闘のほか、近江、大和などで戦いは1カ月ほど続いたが、いち早く美濃や東国を押さえた大海人皇子の"東軍"が勝利。その後、皇子は天武天皇として即位した。 ◆交通の要衝、縁起良し  壬申の乱から約900年後、再び天下分け目の決戦舞台となった関ケ原。決戦を前に家康が最初に陣を敷いたのは、桃配山だった。関ケ原一帯を見渡す絶好の場所であったことはもちろんだが「壬申の乱での勝ち戦の縁起を担いだとも伝わる」と飯沼館長は解説する。  慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)の「関ケ原の戦い」から420年を迎えた現在の桃配山は、関ケ原古戦場の国史跡の一つになっている。階段を上った標高約100メートルの場所には、徳川家ののぼり旗や家康の本陣跡であることを示す碑が立つ。鉄道工事などに使うため土が削り出されて当時の形をとどめていないものの、背後には東海道新幹線が通り、眼下には国道21号とJR東海道線が併走。さらに名神高速道路も近くにある。現代でも変わらず東西交通の要衝であることがうかがえる。  展望スペースから関ケ原市街地方向を眺めると、視線の先には、近く開館予定の「岐阜関ケ原古戦場記念館」の建物が見える。後に天皇、将軍となり日本を治める2人が、命運を懸けた戦いを前に見た光景に思いをはせた。

岐阜新聞社

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