Yahoo!ニュース

IDでもっと便利に新規取得

ログイン

元Jリーガー京谷 脊髄損傷の悲劇乗り越え得たものは

配信

  • この記事についてツイート
  • この記事についてシェア
道新スポーツ

 車いすバスケの選手に転身

 交通事故で脊髄を損傷し、プロサッカー選手として引退を余儀なくされた京谷和幸(49、室蘭出身)。車いすバスケットボールへと活躍の場を移し、これまで4度のパラリンピックに出場した。今年1月には来年の東京大会に出場する日本代表のHC(ヘッドコーチ)に就任。指揮官として夢の舞台に舞い戻る。特別企画「逆境を乗り越えよう」の第13回は下半身の自由を奪われながらも華麗なる転身、復活を遂げたパラリンピアン。(聞き手・神馬崇司)

 交通事故で引退「悲しんでいる暇はなかった」

 1993年、Jリーグが発足した。この年22歳だった京谷はジェフ市原(現千葉)に所属していた。10月のカップ戦で公式戦初出場。プライベートでは同い年の陽子さんとの結婚が決まっていた。公私共に順風満帆だった。  だが、悲劇は突然、訪れた。同年の11月28日未明、知人宅からの帰り、雨中の運転で交差点を曲がりきれず、電柱に衝突した。脊髄を損傷し、後に車椅子での生活を余儀なくされた。  「つらい、苦しい、そういう思いがありました。でも悲しんでいる暇はなかった。妻は車椅子生活となる自分との入籍を迷わなかった。守らなきゃいけない。自分が重荷になってはいけない」

 「俺はサッカーだけじゃない」

 翌年の94年秋に退院。その後、運命に導かれるように車いすバスケと出合い、のめり込んでいった。2000年のシドニーを皮切りに4大会連続でパラリンピックの舞台に立ったが、退院直後には、すでに日の丸を背負うことを宣言していた。  「室蘭で結婚披露パーティーを開いたんです。同級生や先輩、後輩が多く来てくれた。でも口には出さずとも『サッカー小僧だった京谷は終わった』って空気が漂っていた。悔しかった。そこで言っちゃったんです。『オリンピックを目指します』と。当時はパラリンピックの存在すら知らなかった。『俺はサッカーだけじゃない』というのを見せたかった」

 「反骨心とハングリー精神を持って」

 京谷は自身の人生を振り返り、「常に逆境にさらされてきた」と述懐する。それが飛躍の原動力であるとも言い切る。  「(小学2年で)サッカーを始めた時もそう。決して裕福な家庭ではなかったですし、ライバルも多かった。いつも反骨心とハングリー精神を持ってプレーしてきた。事故を起こした時もこのままじゃ終われないって。常にそういう気持ちで高みを目指してきました」