【対談連載】一橋大学ソーシャル・データサイエンス教育研究推進センター 教授 清水千弘(上)
【東京・国立市発】日本大学を卒業後、産官学にわたる実に多くの大学院や研究所を渡り歩いてきた清水氏。元々はトップアスリートとして大学に進学したが、その後、異色の経歴をたどって経済学者としての道を極めていく。氏を一橋大学そして経済学の世界に誘ったのは何だったのか。その経緯をうかがった。 (本紙主幹・奥田芳恵) ●アスリートとして活躍 大学から引く手あまた 芳恵 日大を卒業して一橋大学の教授になられた、というご経歴に少し驚きました。 清水 はい。でも実は私、元はアスリートだったんですよ。 芳恵 えっ?何をやっておられたのですか? 清水 中高とテニスをやっていました。高校1年生のときはドイツに派遣していただいたり、インターハイや国体などの全国大会で、そこそこの成績を残したりして。高校が岐阜県立大垣北高等学校という地元では進学校だったこともあり、高校3年の秋には、日大、明治、慶應、早稲田、同志社といった私学だけでなく、高校最後のインターハイが金沢だったご縁で、大会中に金沢大学からも誘いがかかりました。その中で、高校生のときに練習相手となっていただいた実業団の方が日大出身でした。日大には、金森義雄先生という名物監督がいらっしゃいました。金森監督の下でテニスをしたいという思いで日大に進学しました。 芳恵 日大を選んだ理由は分かりましたが、データサイエンスとは程遠い気がします…。 清水 大学に入ってすぐに、肘の故障が悪化しまして。そのためテニス部を退部し、学業に専念していくことになりました。その時に、東京大学で経済学部長を務められ、日本で最初に計量経済学を教えられた中村貢先生にご指導いただくことになり、これがデータサイエンス研究の出発点となりました。でも、計量経済学を勉強しようなどといった高尚な選択ではなく、たまたま中村先生の指導を受けることになったのです。 芳恵 と言いますと? 清水 日大では2年生からゼミに所属するのですが、アスリートは遠征などもあるため、講義を休みがちです。教員になって分かるのですが、そういう来るか来ないかわからないような学生は指導しづらい。同時に文系の学生にとって「計量経済学」は人気がありません。特に来られたばかりの先生の場合、先生のお人柄もわからないし、東大の偉い先生が数学を教えるとなると、最初は敬遠してしまうんです。でも教務課長から、「あなたは中村先生に引き受けてもらうことになりました。ほかに入れるゼミはありません」と言われて…(笑)。 芳恵 ゼミ生は清水さんだけ? 清水 そうです。普通のゼミなら所属の学生が持ち回りで、数週間に一度の発表というのが普通ですが、ここでは中村先生と私だけなので、毎回、私が報告するしかないのです。マクロ経済学と計量経済学の専門書を先生と毎週輪読していきました。でも、随分と計量経済学・統計学・確率論を基礎から鍛えていただくことができました。 ●データの力で物価指数を再構築する 芳恵 今はどんな研究をされていますか。 清水 広い意味での「経済測定」です。中でも民間が持っているビッグデータを用いて「価格指数」の新しい推計法を開発したり、実際に作成したりするといった研究です。例えば、消費者物価というのは本来、それを消費することで人がどれほど幸せを感じることができるのか、効用を得ることができるのかを測定するものです。このうち住宅は25~30%を占めます。そのため、住宅の測定から始めました。いま都心の住宅価格は海外マネーが流れ込んで高騰していて、本来の「消費による効用」とはかけ離れつつあります。そのメカニズムの解明も研究の対象です。 消費者にとって消費の選択肢の多さは幸せにつながります。食べ物の種類や、遊びに行く場所の選択肢はやはり都市ほど多い。お米を買う場合、ビッグデータを見ると、東京では218品種出回っているけれど鳥取では26品種、私の地元の岐阜だと56品種ということがわかりました。すると、たくさんの選択肢の中から最適なお米を選ぶことができる東京が一番幸せだということになります。 また、ラスパイレスやパーシェといった物価指数の基礎が構築された時代には、携帯電話などのデジタル財は存在していませんでした。でも現代ではデジタル財は人に大きな幸福をもたらします。その価値をどう測るか。そのような研究もしています。 芳恵 なるほど、「物価指数」というのは社会の実態をより正しく反映すべきということですね。 清水 その通りです。 ●「あなたは天才たちの論を証明するコマになりなさい」 芳恵 テニスから勉強へ、すぐ切り替えはできたのでしょうか。 清水 アスリートとしての寿命はいつか終わりを迎えるということは頭ではわかっていました。しかし、けがをしたときには、こんなにも早く終わってしまうのか、と思いました。当時はスポーツ部に所属している選手が退部するということは、大学を退学するということでした。スポーツ推薦で入ってくるわけですから、それが当たり前でした。私は、推薦で日大に進学しようとしたときに、当時のテニス部の監督から、スポーツ推薦ではなく受験して日大に行くようにと言われていて。日体大出身で、インカレでも活躍された監督は、私がけがをしてテニスができなくなる可能性を予見していらしたのだと思います。 父の存在も大きかった。テニスをやめることになったときに、父が「これまでは真面目に勉強したことがなかっただろう。だったら社会人になる前に勉強をやったらどうだ?」と言ってくれました。それで社会に出る前の最後の時間で勉強を一生懸命やってみようと思ったんです。気が付けば、学部を卒業する時には成績優秀者に送られる優秀賞と同窓会会長賞をいただくことになりました。そして日大の先生方の推薦もあって特別研究生試験を受け、特待生として学費免除、さらに月に5万円の研究費をいただけることになりましたので、そのまま日大の修士課程に進みました。ここで、研究者になる意志を強く持ちました。 芳恵 その後、多くの大学や研究所を渡り歩いておられます。 清水 日大での修士2年目のときに父の勤め先が倒産しました。そのため就職も考えたのですが、父は「自力で通えるなら頑張れ。こちらは心配はいらない」と言ってくれたのです。そのため、研究者になるという志を変えずに、大学院の博士課程への進学を決めました。同時に中村先生の助言もありました。博士課程を目指したときに、中村先生から「君は日大ではチヤホヤされているかもしれないけど、日大の外に出たら秀才でも天才でもないんだから、今のままでは研究者としては大成できないよ」と言われたのです。そして、今の経済学の主流は理論だけど、データで実証していく時代が必ず来る。特に大きなデータを扱うことができる研究者はほとんどいない。これからの経済学の世界では、実証研究が主流になっていくから、プログラミングを勉強しなさい。そして、実証ができて多くの先生にかわいがっていただけるような研究者になりなさい。博士課程に進むなら、その力をつけられる大学院を選びなさい、と。 芳恵 ずいぶんとシビアな言葉ですね。 清水 でもそのおかげで道が開けていったのも事実です。当時、プログラミングを学ぶといえば、計算機センターが充実し、コンピューターサイエンスで多くの優秀な研究者がいた東工大が良いだろうということになります。そして、生まれて初めて本気で受験勉強をすることになったわけです。 芳恵 次回は、その後の経緯についてお聞かせください。(つづく) ●師匠にも多くの指摘「言いたいことは言うほうなので」。 人生の転機となった宝物だと清水氏が語るのは、ブリティッシュコロンビア大学時代に恩師となったErwin W. Diewert氏が著した「レクチャーノート」。難しいことで有名な分厚い教材だが、清水氏はそこに数式の間違いを頻繁に見つけては講義のたびに指摘し続けた。Diewert氏からは「30年間、信頼して使ってきた教材なのに、間違いを指摘してきたのは君だけだよ」と、あきれとも称賛とも取れるため息が聞こえたそうだ。 心にく人生の匠たち 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。 奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長) <1000分の第362回(上)> ※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。