ロータリーエンジンを襲った排ガス規制に5チャンネル体制の立ち上げ、昭和から平成へのマツダの歴史|マツダ戦記|マツダの栄光と陰り
我が世の春をおう歌していた日本の自動車業界が、排ガス規制とオイルショックに襲われ、苦難の道を歩むようになったのは1970年代半ばだった。 大きな打撃を受けたのは高性能を売りにしているスポーツモデルで、排ガス対策によってエンジンはパワーダウンを強いられた。また、オイルショックによって燃費の悪いクルマは敬遠されたから、販売は落ち込んだ。 【画像14枚】波乱に満ちた80年代から90年代初頭 マツダの栄光と陰り 東洋工業を名乗っていたマツダも例外ではなく、大きな打撃を受けた。ロータリーエンジンの実用化に成功したマツダは、70年代を「ロータリゼーション」の時代と呼び、量販に意欲を燃やしていた。 しかし73年秋にオイルショックに見舞われ、ガソリンをがぶ飲みするロータリーエンジンは北米市場で「ガスイーター」の汚名をきせられた。 ロータリーエンジンに逆風が吹き、販売は低迷したが、マツダはロータリーエンジンを捨てなかった。エンジニアは「技術で叩かれたものは技術で返す」と発奮し、エンジンのクリーン化とともに燃費改善に取り組んだ。 排ガス対策は、サーマルリアクター(熱反応器)を用いた独自の排ガス浄化システム、REAPSで乗り切った。また、希薄燃焼方式のロータリーエンジン6PIを開発し、燃費を40%も向上させた。 【コスモ】 コスモと言えば、マツダを象徴するスペシャリティーカー。初代はご存じ、初めて量産ロータリーエンジンを搭載したコスモスポーツで、81年にデビューした3代目がハチマル世代となる。 75年秋、マツダは低公害をうたったプレミアムスポーツクーペのコスモAPを発売し、ヒットさせている。そして78年3月にリトラクタブルヘッドライトを採用したサバンナRX-7(SA22C)を送り込んだ。美しいクーペボディをまとったRX-7は、センセーションをもって迎えられている。エンジンは、コスモAPから譲り受けた昭和53年排ガス規制をパスした12A型だ。 7000rpmまで気持ち良く回る痛快なロータリーエンジンを積み、フットワークも軽やかなRX-7には多くの人が強い関心を抱いた。発売直後は1万台に迫る月販台数を記録し、社会現象にもなった。79年秋に希薄燃焼方式の6PIエンジンに換装し、83年秋にはターボ搭載車を追加する。 第二次オイルショックの襲来とフォードとの提携開始 しかし、RX-7の足を引っ張るように、第二次オイルショックが襲来した。 マツダは経営基盤を確固たるものにするために、79年11月にアメリカのフォードと資本提携を結んだ。 また、再び燃費志向が強まったので、80年6月にボトムのファミリアをモデルチェンジ。5代目のファミリアはFF方式に転換し、エクステリアもウエッジシェイプを基調とした若々しいデザインだ。快適な電動サンルーフやラウンジシートの採用も話題となった。 VWゴルフを徹底研究したファミリアは、発売されるや大ヒット。第1回日本カー・オブ・ザ・イヤーにも輝いた。瞬く間にカローラから販売トップの座を奪い快走したので、トヨタは慌ててカローラⅡを開発。ファミリアはわずか18カ月で50万台の生産を記録。マツダの業績回復に大きく貢献した。 ファミリアの成功で勢いづいたマツダは、81年にフォードブランドを扱う「オートラマ」を立ち上げた。82年にはカペラをモデルチェンジし、駆動方式をFF方式に変更した。このカペラも日本カー・オブ・ザ・イヤーの栄光に輝いている。社名を東洋工業から「マツダ」に変更したのは84年5月だ。この時期、韓国の起亜に資本参加し、北米や台湾で現地生産を行うなど、積極的に海外事業を拡張する。 【カペラ】80年代に入ると、4代目が82年に発表された。それまでのFRレイアウトからFFレイアウトとなり、CMにアラン・ドロンを起用して注目を集めた。 バブル期の積極的な拡大と「5チャンネル体制」の採用 85年、新生マツダはファミリアとRX-7を相次いでモデルチェンジ。ファミリアには後に1.6ℓターボや日本初のフルタイム4WD設定している。 2代目RX-7(FC3S)が搭載したのはインタークーラー付きターボで武装した13B型だ。サスペンションやステアリング形式も一新し、走りのポテンシャルを飛躍的に高めた。 そして86年にルーチェをモデルチェンジし、87年にエチュード、88年にはペルソナを送り出すなど、ニューカーや兄弟車を積極的に投入する。バブル景気の真っただ中だ。 出せば売れる時代だったので、マツダは積極的に拡大政策を突き進んでいった。 【ルーチェ】 86年デビューの5代目ルーチェでは、マツダ初のV6エンジンを搭載。2ℓ自然吸気とターボのほか、のちに高級車らしい優雅さを備える3ℓ自然吸気もラインナップに加わった。その一方で、FC3Sと同じ13B型ターボも搭載しており、そちらはスポーツカー顔負けの走りを披露した。 年号が平成に変わった89年に国内販売チャンネルの大改革を断行し、5チャンネル体制を敷いた。 「マツダ」のほか、マツダオート店をルーツとするアンフィニ、フォード系車種を販売するオートラマに加え、スポーツモデルを扱うユーノス、軽自動車やイタリアのランチアなどを扱うオートザムが誕生。 マルチチャンネル化に対応して車名を変え、兄弟車も意欲的に送り込んだ。しかし、車種を広げすぎたため研究開発費や販売店の経費がかさんだ。 また、安売りしたからブランドイメージも希薄になった。これにバブルの崩壊が追い打ちをかけ、マツダは再び経営危機に陥る。そして96年にフォードの軍門に下り、再び冬の時代を迎えた。 だが、またしても救世主が現れる。ハイトワゴンのデミオだ。これが思わぬヒットを放ち、浮上のきっかけをつかんだ。ロータリーエンジンの実用化からの30年間、マツダは浮き沈みが激しく、何度も倒産と合併がささやかれた。そのたびにハンドリングの修正を行い、スピン状態から立ち直るのである。 5チャンネル体制 トヨタや日産のように複数の販売網を持つことで販売を促進させようと考えたマツダは、1989年に5チャンネル体制を立ち上げ、マツダ店、アンフィニ店、ユーノス店、オートザム店、オートラマ店という5系列のディーラーを展開。 91年のル・マン24時間レースで総合優勝を飾ったことは、今も語り草となっている。その一方で、WRC(世界ラリー選手権)にも80年代なかばから参戦していた。6代目BFファミリアではフルタイム4WDとターボエンジン、コンパクトなボディを武器に、87年の第2戦目となるスウェディッシュラリーで見事に優勝。輝かしい戦績を残してきたことも記憶にとどめておきたい。
Nosweb 編集部
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