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結局、安倍昭恵夫人は「大炎上」を繰り返しただけだった

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現代ビジネス

「ロールモデル」としての昭恵夫人

コロナ危機の中、安倍晋三首相が辞任を表明した。この7年半あまり、首相に負けないくらいの話題を振りまいてきたのが、安倍昭恵夫人だった。彼女は何者だったのか。なぜ大炎上を繰り返してきたのか。今年3月には自粛が叫ばれる中、「花見写真」に批判が殺到した。ジャーナリスト・井戸まさえ氏の記事を再掲する。 【写真】安倍昭恵夫人は、どんな「不始末」を繰り返してきたか これほど「学習能力」がない人も珍しい。 自らの「時」と「場」を読まない振る舞いで夫のみならず政権を苦境に立たせて、すったもんだの末、ようやく収束するかに見えたタイミングでまたまた「やらかす」。 もはや誰にも止められない天然キャラはなぜ過去に「学ばない」のか。 そもそも、昭恵夫人からすれば、炎上した振る舞いの出発点は全て「善意」。持てる力の全てを注いで、さまざまな企画を自ら立案し「総理夫人」の役目を果たそうとしているのだ。 しかしあくまで私人。だからこそ、プライベートの範囲内でごく近しい友人や後援者、限定的な「国民」の望みを叶えてあげているのではないか。 そのさまを満面の笑みで写った写真とともにSNSにアップすれば拡散され、それを見た国民が勇気付けられたり、頑張ろうと励まされたりしているのだと、大真面目に信じているのだろう。アベノミクスのトリクルダウンのごとく、に。 もっと言えば、自分の生活、ライフスタイルそのものが国民の「ロールモデル」たる価値を持つと無邪気に信じているからこその行動とも言える。 そこには今回の「花見写真」も新型コロナを前に不安や不便な日々を送る「国民」からみたらどういうふうに捉えられるか、他者への共感も、スキャンダルになり得るかもしれないという危機感もない。 森友事件で自死した妻が訴えを起こすというタイミングであの気楽な笑顔は、安倍政権の面々が持つ「根拠なき万能感」の象徴でもあるだろう。

「天然キャラ」を支える「実家力」

昭恵夫人は今後も含めての人生で、たとえなにがあっても今と変わらぬクオリティオブライフを保って生きていけると確信しているのだと思う。 家族も含めて「明日から仕事を失ったり」「生活に困窮したり」「一文無し」どころか「借金苦に悩んだり」などということは絶対にない。もしも万が一のことがあって「プリズン」に入っても復活できるのは義祖父・岸信介も証明している。 昭恵夫人のこの「根拠なき万能感」はどこから来るのだろうか。 昭恵夫人は森永製菓につながる恵まれた環境のもと育ったことは既知の通りである。 58年あまり、つまり60年近くも大なり小なりの「根拠なき権力」を振るい、「忖度してくれる」周りに支えられつつ「天然キャラ」を否定されずに生きて来られたのは「実家力」あってのことだ。 恋愛結婚だという晋三氏との婚姻も含め、もし昭恵夫人が日本有数の菓子メーカー森永製菓の背景を持っていなかったならばそもそも成立しなかったことは多いであろうことは、さすがの昭恵氏も分かっているだろう。 自分の努力では補えないものこそが「自分の価値」だと気がついた時、だからこそを何かに使わなければならないという妙な使命感に駆り立てているのである。 ちなみに、森永製菓の創始者、森永太一郎氏は明治時代アメリカに渡り、その後帰国し成功したごく少数の日本人である。 婦人運動家・社会思想家だった山田わかの生涯を描いた『あめゆきさんの歌―山田わかの数奇なる生涯』 (山崎朋子・文春文庫)には、アメリカ時代の太一郎の熱心なキリスト教徒ぶりも紹介されている。 だァれもいないと思っていても どこかでどこかで エンゼルは いつでもいつでも ながめてる ちゃんと ちゃんと ちゃんと ちゃんとちゃちゃーんとながめてる 「桜を見る会」に関する論考として「論座」にも書いたが、太一郎氏が作った西洋菓子は普通の菓子ではない。この「森永エンゼルの歌」に象徴されるように「布教」の一貫としてメッセージを伝える役割を担っていたとも言えるだろう。 奉仕と施しの実践は、聖心で学んだ昭恵夫人の中にも染み付いていることであろうが、当然ながらアメリカの公園で寝泊まりするほどの強烈な貧困や差別体験を持ち「施される」体験をした太一郎氏とは覚悟も実践内容も違う。 昭恵夫人のロールモデルは常にあくまで「施す側」である。「施す側」の仲間を増やし「かわいそうな人々」を救う。「win-win」の関係を作るのが自分の役割だとも思っているだろう。決して「施される側」になることはないからこそ、その人たちがどう思うなど想像が及ばない。 自分たちの存在価値を確認するためには「施される側」、つまりは「かわいそうな人々」がいないと成立しないという皮肉なパラドクス。表面的な感動が量産される一方で根本的解決は先送るされていく。 セレブを集めるだけではもちろん変わらないのであるが、いずれにせよ、昭恵氏の本のタイトル『「私」を生きる』(海竜社・2015年)の通り、私流、私本位で進められていくのである。 時にそれが取り返しのつかない悲劇を生んだとしても、他人事。普段、昭恵氏の日常にはいない「かわいそうな人々」への共感に比して、身の回りで起こっている深刻な事象に対する徹底的な不感は、興味関心が「私」にしか向かっていないことを示してもいる。

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