「ウォール街の巨熊」カラ売りで勝ち、カラ売りで破綻した生涯 ヤコブ・リトル(上)
エリー鉄道株で「リトル包囲網」
リトルには相場を離れた日常生活などあり得ないのだ。四六時中、相場漬けであった。だから仲買人仲間は初めリトルのことを笑い、次には憎み、やがて リトルの成功をみて恐れるようになる。そして没後は尊敬の眼差しに変わる。 リトルが初めてウォール街へ姿を現したのは1830年ごろのことで、仲買人ヤコブ・ベーカーの店頭で見習いを始めた。1835年には独立、弟と一緒に「ヤコブ・リトル商会」を旗揚げする。そして1837年の恐慌では多くのブローカーが倒産する中、カラ売りを敢行し大勝利を収める。 カラ売りの妙味を覚えたリトルは当時の人気株「エリー鉄道」に目をつける。1837年の恐慌で、アメリカに莫大な資本を投下していたイギリスの資本家たちは大きな損害を被った。 しかし、アメリカの将来性に賭けるジョレブルたちは、アメリカ株、中でもヤンキー鉄道株を買い続けた。1833年に敷設されたエリー鉄道株はことのほか人気が高く、株式への乗り換え権のついた転換社債などはロンドン金融市場(ロンバート街)で大量に売られていた。リトルは人気のエリー鉄道株の売り崩しを画策、大量のカラ売りに乗り出した。これに対し、仲買人たちは一斉に買い進んだ。日ごろからのやり口を快く思わない連中は、この際、リトルを徹底的にやっつけてウォール街から追放してやろうとばかりに一致団結して買い方に回る。エリー鉄道の重役陣まで買い占め団に加担し、株価は刻々と上昇していく。
リトルが先鞭をつけた戦法
受け渡し期日が近づくにつれ、リトルの敗北は必至とみられるに至る。ウォール街ではリトルの踏み上げ濃厚とみて、買い占め団に十重二十重にチョウチンがついて取組高は膨らんでいく。だが、リトルは平然とカラ売りを続けていった。それには訳がある。 この時、リトルはひそかに腹心の部下をロンドンに派遣し、巨額の転換社債を入手しておいた。期限の切迫とともに社債を株式に換え、期日にはどさっと渡し切りに出た。 株価は一転暴落、買い占め団は一敗地にまみれた。転換社債を利用した売り崩し作戦は、後に「ウォール街の帝王」と呼ばれたダニエル・ドリュー、ジェイ・グールド、フィスクら次世代の大物相場師たちが好んで用いるところとなる。リトルが先鞭をつけた戦法である。 =敬称略
■ヤコブ・リトルの横顔 ウォール街革創期の相場師。1830年ごろ有名なブローカー、ヤコブ・ベーカー商会の手代として仕事を覚え1835年に独立し、兄弟でヤコブ・リトル商会をつくる。ウォール街のブローカーたちは社会的野心を持っていたが、リトルには投機しかなかったから初めはウォール街で嘲笑されていたが、成功していくにつれ漸次、リトルを恐れ始めた。彼らは再三共同して破産に至らしめたが、リトルは3度立ち直り、4度目にとうとう没落した。1857年のことだ。