プロ通算2勝のみも…快速球で強烈な印象を残した「悲運の天才投手」とは
思わぬアクシデント
直球と分かっていても空振りする――投手の「理想の直球」を体現したのが今季限りで現役引退する阪神・藤川球児だった。手元でホップするような軌道の直球に強打者たちのバットが空を切る。「火の玉ストレート」と呼ばれた全盛期の直球は野球ファンの脳裏に深く刻み込まれているだろう。そして、もう1人。「分かっていても打てない」と形容された快速球を投げる投手がいた。元中日の中里篤史。故障に泣かされてプロ通算2勝のみに終わった「悲運の天才投手」だ。 25歳で故障後はわずか4勝も…全盛期に「球界No.1左腕」と評された投手は 埼玉県出身の中里は春日部共栄高に入学。本多利治監督の方針で、「直球だけで三振を奪える投手」を目指した。練習した変化球はカーブのみ。磨き続けた直球は高校レベルを超えていた。3年夏の埼玉県大会。5回コールド勝ちした初戦・北川辺高戦で15個すべてのアウトを三振で奪い、完全試合(参考記録)を達成する。決勝戦で浦和学院高の坂元弥太郎(元ヤクルトほか)と投げ合い、延長10回を投げ合ったが1対2でサヨナラ負け。甲子園出場はならなかったが、坂元との投げ合いは埼玉県の高校野球史上に残る名勝負として大きな反響を呼んだ。中里は現役引退後に週刊ベースボールのインタビューで「完全燃焼できたし、不思議と涙は出なかった」と決勝戦を振り返っている。 東海大相模高の筑川利希也(元ホンダ)、桐生第一高の一場靖弘(元楽天ほか)とともに「関東3羽ガラス」と注目され、2001年ドラフト1位で中日に入団。しなやかなフォームから繰り出される快速球に、一軍で活躍する投手たちも「モノが違う」と目を見張った。1年目に2試合に登板。前途洋々の未来が待ち受けていると思われたが、思わぬアクシデントに見舞われる。02年の春季キャンプ中に宿舎の階段で転倒しそうになり、手すりをつかんだ際に脱臼。右肩関節唇および同関節包の損傷で、投手生命が危ぶまれる重傷を負った。2年間リハビリに励んだが、03年オフのトレーニング中に右肩を再び故障。背番号は「28」から「70」と重い番号に変わった。翌04年も一軍登板なしに終わる。