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『麒麟がくる』でも再現された朝倉館の美しき庭園。なぜ、戦国大名は競って庭園を造ったのか?【麒麟がくる 満喫リポート】

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文/藤田若菜(福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館) 越前朝倉氏5代100年の夢の跡、一乗谷朝倉氏遺跡(福井市)。美濃から逃れた明智光秀が朝倉義景を頼ったことが『麒麟がくる』で描かれたことで脚光を浴びている。ドラマの中でも美しい朝倉氏館の庭園が美術スタッフによって再現されたが、なぜ戦国大名は館の中に庭園を築いたのか。一乗谷朝倉氏遺跡資料館の藤田若菜文化財調査員がリポートする。 * * *

戦国大名たちが庭園を必要とした理由とは……?

NHK大河ドラマ『麒麟がくる』の明智光秀邸の庭園や朝倉義景館の庭園を、皆さんはご存知でしょうか。 光秀邸の庭園は、長谷川博己さんが演じる光秀の食事のシーンなどで見られ、枯山水様の庭園がシーンに風格と彩りを添えていました。光秀邸のみならず、戦国領主の屋敷や館に庭園がつくられているのは、ドラマの演出だけではありません。近年の調査・研究により、戦国領主の屋敷や館の庭園には、重要な役割があったことが明らかになってきているのです。 信長に仕える以前の光秀邸に庭園があったかは定かではありませんが、義景のように一国以上を統治するような守護級の館跡では、発掘調査によって庭園の痕跡が次々と見つかっています。絶え間ない戦闘状態が続いた戦国時代。その一方で、戦国社会において庭園はなぜ必要とされたのでしょうか。 戦国時代の幕開けとされる応仁の乱以前、守護大名は京都において公家等の文化人や将軍主催の和歌会などに招かれることがあり、また応仁の乱以後は、戦乱の京都を追われた文化人等が地方の城下町等に身を寄せ、都の文化を地方へと伝播させました。 和歌会や戦国時代に流行し始める茶会などの文化サロンに参加するためには、守護大名たちは武力だけでなく文化力を磨く必要がありました。また、京都を追われた文化人等がもたらす教養を獲得するためには、文化サロンの舞台を自国に整える必要があり、その舞台に欠かせなかったのが庭園でした。

文武両道の武人こそが真の武士である

武士の間には、「文武両道の武人こそが真の武士である」とする観念が伝統的にあったことが知られています。武力に秀でるだけではなく、文化への造詣の深さが統治者としての権威や能力を示すことであり、軍事的統率だけでは多くの武士を従える統治者にはなれなかったのが戦国時代だったのです。 特別史跡一乗谷朝倉氏遺跡では、当主である朝倉氏一族の館および寺院、家臣の武家屋敷や医師の屋敷等において、15カ所以上という全国に類を見ない多数の庭園遺構が発掘調査によって見つかっています。これらの庭園遺構は、当主のみならず家臣等も文武両道を求められ、和歌会や茶会等の舞台となる庭園空間を必要としたことを窺わせます。 一方、都人などの客人を迎えた記録がない、職人等が暮らした小さな敷地の町屋では、庭園遺構が1カ所も見つかっていません。このことからも庭園には、客人を迎えるための「しつらえ」の役割があったと推定できます。 一乗谷のみならず、庭園遺構は各地の戦国大名の館跡などで見つかっています。具体例を挙げれば、岐阜城跡の麓の織田信長館跡や、周防国等を中心に治めた大内氏の館跡、豊後国等を中心に治めた大友氏の館跡、北条氏の館跡と推定されている小田原城内の曲輪跡などです。 個性豊かな庭園遺構が見つかっており、戦国大名たちは庭園空間を舞台とし、文化への造詣を深めることで文武両道に努め、自国の安定を図っていたのでしょう。

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