酒井順子さんエッセイ。作家アガサ・クリスティーについて。同じ乙女座の一人として特別な存在
マチュア世代に広く支持される酒井順子さん。独自の視点で、ジェンダー、年齢、世代間ギャップといったテーマを軽やかに、でも深みのある切り口で描きます。私たちが日頃もやもやと抱いている感情を言語化し、考察してくれる、そんな酒井順子さんの「憧れの先輩」はミステリー作家のアガサ・クリスティー。どんなところにひかれるのでしょう?書き下ろしエッセイ、お楽しみください。 【画像一覧を見る】
乙女座のあの人の、裏側に魅了され
年末年始など、長い休みに入る前に、アガサ・クリスティーの文庫を一冊買って読むことは、私にとって長年の楽しみです。 彼女に対して特別な感覚を抱くようになったのは、その詳しいプロフィールを読んだ時でした。アガサと自分の誕生日が、同じであることを発見したのです。 私はミステリー小説を書く者ではありませんが、物書き界の偉大な先達の誕生日が自分と同じという事実に、心は躍りました。何らかの同一性を発見すると、相手との距離が急に近くなったような気がするのであり、私はますますアガサ・クリスティーのファンになっていったのです。 そんな中で読んだある作品は、誕生日が同じだという事実よりも激しく、私の心を揺さぶりました。アガサ・クリスティーといえばミステリーですが、彼女の作品の中には、ミステリーのジャンルには属さない作品もいくつかあります。その中の一作である『春にして君を離れ』は、私のみならず、すべての女性達に衝撃をもたらす物語ではないでしょうか。 主人公は、平凡な主婦。彼女は、娘の病気見舞いのために赴いたバグダッドからイギリスへと帰る途中、砂漠の中のレストハウスで足止めを食ってしまいます。そこで出会った様々な人物や出来事によって、彼女は自分の人生を根底から疑い、見つめ直すことに。彼女は果たして、どんな道を選ぶのか……? この小説の中で、殺人事件は発生しません。しかし、殺人事件がもたらすものよりももっと深い恐怖や絶望、そして人間としての哀しみを、読者はこの書の中に発見します。そして著者が、人生の底にある闇の淵をどれほど見つめてきたかも、知ることになる。 アガサ・クリスティーは一八九〇年、和暦で言うなら明治二十三年に、イギリスの裕福な家庭に生まれました。十代の頃から、趣味として小説を執筆。やがて、軍のハンサムなパイロットと電撃的に結婚する一方、最初の長編小説『スタイルズ荘の怪事件』を仕上げてもいました。 第一次大戦中、病院で働いていたアガサは、薬物の知識をたっぷりと仕入れます。彼女のミステリーにおいて薬殺が多いのは、この時の知識があるからこそ。 戦争が終わると子供が生まれ、小説家としてもデビューを果たしました。しかし順風満帆と思われたその生活は、一九二六年に暗転します。アガサは突然姿を消し、「謎の失踪」と言われることに。その背景には夫の不倫があったのであり、やがて二人は離婚します。 アガサは離婚後、一人でイラクへの旅へ出ました。彼女は考古学に魅せられるようになり、二度目のイラク旅行で出会った、十四歳年下の考古学者と再婚。その後の彼女は、考古学への支援を行う一方で旺盛に執筆を続け、ヒットメーカーのままで、八十五年の生涯をまっとうしたのです。 そんな彼女の人生を見ていると、ミステリー以外の作品群の意味合いが、伝わってくる気がするのでした。『春にして君を離れ』では、何も知らずに主婦として生きてきた女性が、砂漠の地において様々なことを知らされるのですが、バクダッドという砂漠の地の乾いた空気感は、アガサの離婚の時の気持ちと通じるのではないか。 また『娘は娘』という作品は、娘を懸命に育ててきたシングルマザーの物語。彼女の再婚を機に娘との関係には亀裂が走り、その距離はどんどん離れていってしまいます。この物語にもまた、娘との関係性に心を悩ませていたアガサの、正直な心情が込められていましょう。 ちなみにこの二つの小説をはじめとしたミステリー以外の何作かの作品は、日本では今、アガサ・クリスティーの作品として読むことができますが、出版当初は「メアリ・ウェストマコット」という名前で発行されました。「メアリ・ウェストマコット」は、アガサが、自分自身の人生を表現する小説を書く時の名前だったのです。 自分の中に弱さや黒さを抱えつつも打ちのめされず、そのような感覚を、誰もが楽しむことができる作品に仕上げ続けた、アガサ・クリスティー。描いたのが作り物の感情ではなかったからこそ、我々読者は、そこに時代を超越した普遍性を見ることができるのではないでしょうか。アガサの作品が今でも読まれ続けているのは、オリエンタル急行やナイル川といった華やかな舞台装置や、鮮やかなトリックのせいだけではないのです。 アガサ・クリスティーの写真を見ていると、穏やかそうな普通の女性という印象を受けるものです。が、穏やかな微笑みの裏には、鋭さ、行動力、女性としての魅力、そしてしたたかさといった多くの陰影が隠れています。同じ乙女座の一人としてはその陰影に魅了されて、遠くに輝き続けるスターを仰ぎ続けているのでした。