ウインターカップまであと1勝、千葉英和の森村義和コーチ「バスケなしじゃ生きていられないんです(笑)」
「普通の人と違って、私はバスケがすべてなんです」
文=鈴木健一郎 写真=野口岳彦 強豪ひしめく千葉県で、千葉英和は2013年、2014年以来となるウインターカップ出場まであと1勝と迫っている。ヘッドコーチを務めるのは森村義和。京北のヘッドコーチとして全国大会を何度も制した実績を持ち、今も溢れんばかりのバスケへの情熱を持つ指導者だが、ここ数カ月は「一歩引いて」チームを見ている。それは教え子である元日本代表、藤岡麻菜美がアシスタントコーチとして母校のバスケ部に戻って来たからだ。選手たちにバスケを教えるのはもちろん、「孫みたいなもの」という自らの後継者を育てることにも全力を注いでいる。 ──まずは森村コーチのここまでの経歴を教えていただけますでしょうか。 1969年に東京の京北高等学校でバスケの指導者を始めました。慶応大でバスケをやっていた監督の下でアシスタントコーチを3年間やりまして、そこで監督が大阪に転勤になったのを機に私がヘッドコーチをやるようになりました。高校を23年間見て、その後に京北中学校を8年間見て、その間には中学と並行して立教大学を3年間指導しています。その後に縁があって千葉英和に来て17年になります。 ──京北は古豪のイメージですが、森村コーチが指導を始める前から強豪だったのですか? ちょうど強くなり始めた頃でした。今のウインターカップが春の選抜大会だった頃、1971年の第1回大会には私も京北のアシスタントコーチとしてベンチに入って、代々木第二体育館で決勝まで行ったんです。明治大学中野との東京対決に負けて準優勝。その後も全国には出ていました。1971年にヘッドコーチになって、その年にインターハイに出て、3年目で優勝しています。その後の6年間はずっとベスト4まで残っていました。ウインターカップでも2回優勝しています。私がヘッドコーチをやっている23年間は、インターハイもウインターカップも23年連続で出場しています。 京北で今ヘッドコーチをしている田渡優は教え子なんですけど、私と10年一緒にやっていていた彼が高校の指導者を希望していたので、私が中学に移ったんです。中学が同好会からクラブになった時で、新任の先生と2人で一緒に練習を見て、5年目に全中に行って初優勝して、次の年は予選リーグ止まりでしたが、その次が3位。そこで定年になりました。 この千葉英和にお邪魔するようになった当時は、県大会にも出られないチームでした。私が4月に来て、6月にインターハイ予選なんですよね。なんとかごまかしてブロックで勝って県大会には行ったんですが、それが終わると12人いた部員のうち3年生の6人が抜けてしまって、あとはバスケ初心者みたいな子ばかりからの再スタートでした。 ──定年とともに指導者を引退しようとは思わなかったですか。強豪校で全国優勝を何度もした後に、実績のないチームでイチから教えることに腰が引けることはありませんでしたか? 普通の人と違って、私はバスケがすべてなんですよ。私の父はもうとっくに亡くなりましたが、成城高校から中央大に行ってバスケをやっていました。昭和6年に卒業した後は、タイマーとしてバスケにかかわったんです。当時は電光掲示板じゃなかったので、ストップウォッチを持って、とにかくバスケが好きだから大学のリーグ戦、実業団、国際試合も東京でやるとなれば全部タイマーの担当として、土日は無料奉仕でやっていました。4人兄弟でしたが、土日にどこかに連れて行ってもらった記憶は何もありません。それでも私は小学校の頃から、当時はミニバスなんてなかった時代でしたが、友人と一緒に父がタイマーをやる試合に連れていかれていました(笑)。その友人の一人がオリンピック選手になった若林薫です。父は東京オリンピックの決勝戦でもタイマーをやりましたし、アイスホッケーの掲示員がいないからと頼まれてアイスホッケーのタイマーも手伝うようになって、札幌オリンピックの試合でもタイマーをやっています。 その血筋を引いているわけですから、バスケなしじゃ生きていられないんです(笑)。定年になったから家でのんびりしようなんて思ったことがなく、同年代のじいちゃんばあちゃんと話す機会がほとんどなくて、毎日こうやって孫のような子たちとずっと一緒にバスケをやっているから気が若いんでしょうね。孫も4人いるんですがバスケはやっていないので、私の代で終わりなんですけど、藤岡は孫みたいなものですから、頑張ってくれると思います(笑)。