栄華を極める「藤原道長」裏にある“大病との闘い”。道長から一条天皇に出家を願い出ることも。
■病の一方で、権力を強化するために動く 病を患った一方で、道長は権力をより強化するために画策します。999年11月1日、道長は長女の彰子を一条天皇のもとに入内させるのです。 この時点で一条天皇の後宮には、定子(藤原道隆の娘)、尊子(藤原道兼の娘)、義子(内大臣・藤原公季の娘)、元子(右大臣・藤原顕光の娘)がおりました。彰子にはライバルが沢山いたと言えるでしょう。 一方で、このときはまだ誰も皇子は産んでいませんでした。病み上がりの道長にとって、長女・彰子の入内は朗報だったと言えるでしょう。
彰子の入内に従ったのは、女房40名、童女6名・雑用担当者6名でした。紫式部はこの5年くらい後に、女房として仕えることになります。彰子は、15センチ以上の黒髪の美人で、12歳とは思えないほどの落ち着きぶりだったと言います。 さて、彰子の入内からしばらくして、中宮定子が皇子を出産します。敦康親王です。 道長は、皇子の7夜の産養(子供の将来の多幸と産婦の無病息災を祈る儀式)に奉仕しています。 しかし、内心は複雑な感情が渦巻いていたと思われます。長女・彰子にも早く皇子が誕生してほしいという思いとともに、もしそれが難しい場合は、自分が敦康親王の後見人になることも考えたのかもしれません。
後宮での彰子の立場を高めたい道長は、彰子の立后に向けて動いていました。 このとき、すでに定子が中宮の座についていました。彰子が立后したら、1人の天皇に、中宮が2人並び立つ事態になってしまいます。 ところが、定子は出家している身のため、国のための神事を行うことができません。よって「日本は神国であり、神事を重視すべき」との考えから、彰子の立后を主張する人もいました。 そこで1人の天皇に2人の后が並び立つ前例のないことを前に、対策が講じられます。彰子を中宮として、定子を皇后にするというのです。