「有名バンドのゴーストドラムとして食いつないだ」元「D-SHADE」のドラマーが告白「何度も本当に死にかけた」90年代音楽シーンを騒がせた男の今
ヴィジュアル系バンドの黄金期である1990年代後半に、メジャーデビューからわずか2年で解散したバンド「D-SHADE」。田辺エージェンシーの期待の新人としてデビューし、その楽曲制作や宣伝費用は当時「3億円」と騒がれた。そんな伝説のバンドでドラマーを務めたYUJIこと秋好祐治氏(47)は、幼少期からさまざまな病と闘ってきた。ペルテス病、髄膜炎、狭心症、膀胱がん――それでもなお、ドラムスティックを握り続けるのはなぜなのか。その活動の原動力と半生に迫った。 【画像】幼少期にペルテス病を発症し、左脚に装具を着ける秋好祐治氏
人気絶頂期にボーカルの意向で解散
1998年4月にメジャーデビューしたD-SHADEは中高時代の同級生ら4名で結成され、インディーズ時代から10代とは思えない作曲能力と演奏力の高さで人気を博した。 デビューシングル『BELIEVE』はナインティナインの冠番組「ナイナイナ」の、セカンドシングル『ENDLESS LOVE』はMAXが主演を務めたドラマ『スウィートデビル』の挿入歌となるなど、デビュー当初から大きく期待されていたことがわかる。 同バンドでドラマーを務めたYUJIこと秋好祐治氏は、幼少期からさまざまな病を抱えながらも、今なお精力的に活動を続けている。 その原動力はどこにあるのか。D-SHADE時代の知られざるエピソードから、現在の活動まで、その波乱万丈な半生に迫った。 ――なぜ、人気絶頂で解散することになったのでしょう。 秋好祐治(以下、同) それはボーカルのHIBIKIが別の道に進みたいって言い出したからですね。僕らメンバーは何度も止めたし説得したけどダメでした。 ――解散後、秋好さんはどういう活動をしていたのですか? 東京での暮らしが嫌になり川崎のアパートに引っ越しました。稼ぎが途絶えたんで、寝る間も惜しんでバイトを何個も掛け持ちし、ドラムの練習をしてました。 “トラ”っていう、業界用語で言うところの代役的な仕事を何度もしました。実はバンドの中には実際に演奏してないドラマーがいて、その方の代わりに僕がステージの脇でドラムを叩くのです。 ――なんと! そんな役割があるんですか。実は有名なバンドのドラマーが演奏してなかった、なんてパターンもあるんですね。 はい。ドームで演奏するクラスのバンドさんでも、そういうケースはあります。D-SHADEを辞めた後が一番謙虚に練習を積み重ね、どんな仕事もありがたくさせていただいてました。 バイトも練習も寝ないでやってたんで、無理がたたって25歳で髄膜炎になり、2週間意識不明の重体になりました。
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