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「爆心地にも住める」被爆直後の長崎を懸命に調査した研究者がいた 1945年9月14日の西日本新聞

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西日本新聞

 〈原子爆弾による放射測定のため長崎に出張中の九大理学部教授篠原博士、岡田助教授ら四名の調査班は十二日夕帰学したが、篠原教授はベーター線、ガンマー線等の存在により生物の生存は不可能だという説を強く否定、被爆地において生活しても差し支えないと次のごとく語った〉 【関連】1945/8/10【長崎市に新型爆弾 被害は僅少の見込み】西日本新聞の紙面から  九州大の篠原健一教授は被爆直後の広島に入ったほか、数回にわたって長崎に入り被爆状況を調査。1986年9月に長崎大原爆資料センター(現在の原爆後障害医療研究所資料収集保存・解析部)で講演し、当時を振り返っている。  それによると、篠原氏は8月13日に初めて長崎の被爆地入り。長崎要塞司令部で司令官らと面会した際に「あの爆弾は原子爆弾ではないという話、というよりお説教のようなものを30分ばかりも聞かされた」と回想している。  この記事は2回目の被爆地調査から帰着した篠原教授の談話だ。講演録によると、第2回調査団は9月8日に出発。救護所になった新興善国民学校を訪ね、「とても正視することができず、室の中に入る勇気もなく引き返した」と振り返っている。  調査の結果について、本紙の記事で篠原教授はこう説明している。  〈長崎において放射測定の結果は非常に弱いものであった。(中略)爆発の時は相当あったであろうが、それから一月たっているから寿命の短い放射原子はなくなり、割合に寿命の長いものだけが残っているのである。だが、これもだんだんになくなる〉。篠原教授は被爆地に残った放射性物質についてこう分析した。  そして、次のように説明した。〈被爆地で採れた藷(※いも)を食っていいだろうかとか、水は飲めるかときく人があるが何を食べてもいいのだ。外傷もない人が死亡しているのは、爆発後現地に行き放射線におかされた人ではなく、当時被爆地帯にいたため骨髄をやられ血球補給機能の障害が今出てきているためだと思う〉  篠原教授は9月28日から3回目の現地調査を実施。爆心地南東の西山地区で非常に強い放射能を検出したと報告している。  被爆直後の長崎で懸命に調査に臨んだ篠原教授は翌年、現地で永井隆博士にも面会している。後年、理化学研究所の主任研究員を務め、早稲田大に移った。  1995年10月5日の本紙朝刊に、篠原氏の訃報記事が掲載されていた。〈元早稲田大教授、放射線物理化学〉と紹介されている。被爆直後の長崎で調査に当たったことは記されていなかった。(福間慎一)    ◇    ◇  〈〉の部分は当時の記事から引用。できるだけ原文のまま掲載。

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