「客から100万円のチップをもらった子もいます」1000人の芸者がいた山梨県の“ナゾの歓楽街”「石和温泉」バブル時代の“凄すぎる熱狂ぶり”
30歳過ぎで芸者になった女性が語る、石和の夜
「芸者600人? とんでもない、1000人いたんですよ。温泉街のあの通りね、人が多すぎて車の行き来ができないくらい。石和は『女性の街』です。要は……色町」 元芸者であり、元置屋経営者でもある女性に出会った。花田千恵子さん。昭和24年生まれの74歳。ここは昔の芸名、ぽん太と呼ばせていただく。 ぽん太が芸者となったのは、この道では遅咲きの30歳過ぎのとき。深い事情があったわけではない。置屋の「お父さんお母さんをよく知っていたから」、静岡市から身一つでやってきても怖さはなかった。むしろ、石和駅(現・石和温泉駅)に降り立ったとき、「あんまり田舎で帰ろうと思った」ほど。 ぽん太はまだ石和の夜の顔を見ていなかった。ときは昭和61年。バブル景気に突入し、繁栄をきわめていく歓楽地に、知らず知らずのうちにおのれの身を投じていた。ほどなく知ったのは、数十軒の見番(けんばん)のもとに連なる芸者置屋が、ゆうに100軒はあったこと、各置屋には数人から10人程度が所属し、すり鉢の底のような土地に総勢1000人もの芸者がいたこと。
日暮れともなれば浴衣姿の男たちが通りにあふれた
ぽん太の言うあの通りとは、温泉宿の並ぶ、東西約1.5キロの一本道「湯けむり通り」を指している。昭和の終わりごろ、日暮れともなれば浴衣姿の男たちがあふれ、旅館からつっかけてきた下駄の音がうるさいほどにあたりに鳴り響いていたという。 いま会話していても軽妙なテンポが心地いいぽん太は、すぐさま人気芸者となる。日本経済の隆盛がそれを支えた。 「あのころ、毎日指名が入って1か月全部のお座敷が埋まったこともありました」 客は三多摩地区や千葉、埼玉など首都圏に住む開業医や自営業の社長などが多かったという。小さな内装会社の社長などはぽん太を気に入り、社員数人を連れ毎年社員旅行に石和を訪れ、彼女を指名するようになった。紅灯が消える夜はなかった。たった1日だけ、全部キャンセルが出た日がある。 「天皇陛下が亡くなられたときですね。あのときだけ」 昭和64年1月7日、昭和天皇崩御。昭和が終わった瞬間だけを休息日にして、温泉地の熱狂は平成に入っても続いていく。