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40歳で30本塁打を放つも、バットを置いた世界のホームラン王【王貞治、最後の1年】

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ベースボールキング

◆ 『男たちの挽歌』第20幕:王貞治  40歳で年間30本塁打を放ちながら、現役引退した伝説の男。    気が付けば、一般教養レベルで王貞治の存在を知っている野球ファンは多いと思う。自分もそのひとりだ。小学校の図書館で「戦後史の一部」として伝記を読み、昭和を振り返るテレビ番組で繰り返し世界記録の756号アーチの映像を見た。つまり、あの頃の王貞治は巨人軍というより、時代を背負っていたのである。 【画像】王貞治の主要打撃成績  その世界のホームラン王が、現役最終年に30本塁打放っていることは有名だ。ただ、巨人V9時代の長嶋茂雄とのON砲、前人未到の通算868本塁打、13年連続本塁打王、史上最多の9度のMVP、こちらもNPBトップの2170打点、2390四球という偉大な実績は度々語られるが、現役ラストイヤーの1980年(昭和55年)の詳細は意外と知られていないのではないだろうか。今回は、その「王貞治、最後の1年」を振り返ってみよう。  実は引退数年前から、王の年齢は度々メディアで話題になっていた。今よりも選手寿命が短く、当時は30代に入るとベテラン扱いする風潮があった。長嶋茂雄新監督が就任して球団初の最下位に沈んだ75年シーズン、35歳の王は左足の故障もあって33本塁打に終わり連続キングは13年で途切れる(阪神の田淵幸一が43発で初タイトル獲得)。 だが、翌76年に49本でナガシマ巨人初Vに貢献、世界記録フィーバーで国民栄誉賞に輝いた77年は、37歳にして自身3度目の50本塁打達成と2年連続でMVPとホームラン王のタイトルを再奪取する。翌78年も2年連続の開幕戦満塁弾、6月に通算2500安打達成、8月に自身2562試合目で通算800号達成と、世界の王が終わることなどあるのでしょうか、なんてG党は、その衰え知らずの規格外の打撃に酔いしれた。 ◆ スペシャル・ワン  しかし78年終盤には、『報知新聞』で第4打席の打率低下に加え、一昨年は16だった右飛が37と急増したことで、全盛期は入っていたはずの打球のお辞儀と指摘される。 ここで提案されるのが「4割打者への転向」というのがやはり別次元なわけだが、3000安打男・張本勲の「ワンちゃんがヒット専門に狙いだしたら、オレなんかとても太刀打ちできない。もし日本球界に4割打者が生まれるとしたら、あの人しかいないよ」というコメントがやたらとリアルだ。なお、このシーズン、王は38歳で39本塁打を放ち、ホームラン王こそ広島の山本浩二(44本)に譲ったが、118打点で8年連続、自身13度目の打点王を獲得してみせた。  思えば田淵や山本、若トラ掛布雅之、大阪の野球少年の清原和博にしても、スラッガーたちは死にたいくらいに憧れた王の背中を追いかけ一流打者へと育っていったのだ。  「三度目の三冠王挑戦を」と意気込む79年開幕前には、『週刊ポスト』で「39歳・王貞治の肉体限界説を科学する」なんて特集が組まれている。 川上哲治や長嶋茂雄の引退は38歳、「ウエイト・トレーニングの採用で若返りを図る怪物の努力は、中年サラリーマンも身につまされる」という論調はペナントレース突入後も続く。例年以上にマッサージが入念になった、一本足での静止時間が短くなった……。「世界の王貞治の引退を告げている根拠の数々」(週刊現代79年5月10日号)なんて記事が度々週刊誌を賑わせた(なお当時の球界は江川卓の「空白の1日」直後で大騒動となっていた)。  実際、79年の王は6月末まで13本塁打のスローペースで、さらに13号から14号まで53打席を費やし、30打席ノーヒットも経験。5月5、6日には自身初という発熱での欠場もあった。だが、3ホーマーを放ったオールスター戦できっかけを掴むと、後半戦は交錯プレーによる助骨亀裂骨折に悩まされながらも、2年ぶりの4試合連続アーチを記録するなど巻き返し、33本塁打で終える。しかし、チームは5位に沈み、王自身も22歳の一本足打法転向後、初めて打撃タイトルは取れず、プロ22年目の「最後の1年」を迎えるわけだ。 ◆ 新たな打撃スタイルの模索と…  開幕前にはプロ入り時の監督でもある恩師・水原茂との『週刊ポスト』誌上の対談で、近年は打席に入る際、捕手にニコニコと話しかけることが多くなり、投手を見る時にまだ微笑みが残って頬が緩んでいることを指摘される。これに対し、「ウーン、なるほど……たしかにボクよりみんな下になっちゃったですからね。だから目を吊り上げてやる雰囲気がだんだんなくなってきた、はっきりとね。ウーン、これは反省しなければいかん」と思わず口にする40歳を目前にしたベテラン王。  年齢も実績も周囲より上、若手選手からしたら巨人の背番号1は憧れであり野球の神様のような存在である。目標とする相手も目指すべき記録ももうない。なにせ地球上の誰よりも本塁打を放ってきたのだから。  そんな中、ビッグワンは春先に風邪を引いて心配されるが、1980年開幕戦で大洋のエース平松政次から右翼席へ先制アーチをかっ飛ばす。5月20日に40歳の誕生日を迎え、この頃から相手守備陣の王シフトの逆をつく左翼方向への流し打ちを頻繁に見せるようになる。  新たな打撃スタイルを模索しながら、6月12日の広島戦では史上初の通算850本塁打を達成。連盟表彰され、試合後の記者会見で「あと2、3年はやりたい。900号は打ちたい」と宣言した王は、7月14日の神宮球場で1試合3ホーマーの固め打ち。前半戦終了時で打率.287、21本塁打はトップの山本浩二(広島)とわずか3本差に追っていた。  7月19日、西宮球場で行われたオールスター戦でも第1戦の初回に通算13本目のアーチを右中間スタンドに叩き込み、「パ・リーグのボールはよく飛ぶなあ」なんつってご機嫌なコメント。さらに後半戦開幕の25日阪神戦で、甲子園の夜空に22号を打ち上げる。……これ王さんは本当にこの年限りで引退するのだろうか、と思わず原稿を書きながら疑ってしまうくらいの現役バリバリ感である。  しかし、だ。ここから王は17試合連続ホームランなしのスランプに陥ってしまう。そして8月14日の中日戦、それまで得意にしていたマウンド上の戸田善紀のボールをとてつもなく速く感じてしまった。ベンチの中畑清や篠塚利夫ら若手が、「スピードは全然ないんだが……」と言っているのを聞いてさらにショックを受ける40歳のビッグワン。2打席目には危ないと思って見送ったインコースの球がストライク判定された。この時、王は初めてもうダメかもしれないと「引退」を意識する。 ◆ 王貞治の流儀  夏場以降、マスコミは容赦なく「12球団で最低の4番打者」や「休養のすすめ」を書き立てる。引退直後に出版された王の自著『回想』(ケイブンシャ文庫)によると、8月半ばを過ぎた頃、妻に引退するかもと伝え、9月下旬にはCM撮影の際に仮に引退しても迷惑をかけないよう、ユニフォーム姿と私服の二通りの撮影を自ら提案している。  以前なら、第1打席で凡退した直後に悔しくて必ずベンチ裏で素振りをしたものだ。だが、今は味方が攻撃しているとき選手サロンで熱いお茶を啜りながら週刊誌のページをめくったり、流行りのルービックキューブで遊び、気を紛らわせる背番号1の姿があった。身体はまだできる。だが、心が燃え尽きていたのである。  9月10日の報知一面で「王苦悩激白」「進退もチラリ」と引退を示唆するような見出しが並び、以降各社の報道合戦が繰り広げられる。スポニチやサンスポは現役続行、日刊スポーツは引退にこだわり続けた。運命の巡り合わせか、時を同じくして長嶋監督の周辺も進退問題でにわかに騒がしくなる。球団大物OBの長嶋解任を匂わすような発言は様々な憶測を呼んだ。  注目の背番号1は9月20日の広島戦で自身最後の1試合2ホーマーを放つも、21日から28日にかけて、22打席連続ノーヒット。10月2日、29号アーチを放った遠征先の浜松のホテルで、ミスターに呼ばれた王は現役続行の可能性を聞かれ、「五分五分です」と答えたが、本心では九分九厘辞めるつもりだったという(2011年に出版された『野球にときめいて 王貞治、半生を語る』(中央公論新社)において、浜松で長嶋監督に「何とかして自分の調子を取り戻したい。ですが今の調子のままだったら今年でやめるという考えを持っています」と伝えたという記述がある)。  10月9日、長谷川実雄球団代表には「九分九厘、辞めると思います」と初めて気持ちを口にして伝えた。それでも残りの一厘にかけて、なにか新しい打ち方はできないものかと早出の打撃練習に打ち込む王は、10月12日、ヤクルト戦で神部年男から19年連続の30号到達となる通算868号を後楽園球場の右翼席へ運ぶ。それでも最後まで納得できる感触は戻って来なかった。15日の本拠地最終戦後、マスコミには「来年も当然やる」とうそぶいたが、妻には引退する意志を告げた。しかし、翌16日に正力亨オーナーから強く慰留されるのである。  当然、しばらく野球を離れて釣りやゴルフを楽しみのんびりしようと夢見ていた男は戸惑う。だが天下のONを同時に失うことだけは避けたい球団は、王に「助監督兼選手」プランを提案し、一時は「王の来季は助監督兼4番打者」と報じたメディアもあったほどだ。  それでも、王の引退の意志は固かった。30本塁打打っても、30本の中身が問題だ。周りはまだやれると言うが、落ち目になってまでユニフォームにしがみついているような姿をさらしたくなかった。当時のONは大相撲の大横綱のような立場だ。番付を落としてまで現役は続けられない。負担を軽減するため6番や7番を打つことは許されなかった。 ◆ 幕引きの通算1032号弾  王が通算2786安打目の安打を放った10月20日の広島戦で80年の全日程が終了。直後に引退発表をしようと決めていたら、なんと翌21日に長嶋監督が「男のケジメ」で電撃辞任する。当然、ミスタープロ野球の事実上の解任に世の中は巨人批判で溢れ返った。この前後の経緯は前述の『回想』に詳しいが、王は喧噪の中でしばらく「来季も現役続行」とコメントし続ける。 最終的に、藤田元司新監督の強い依頼もあり、助監督だけは引き受け、当初の予定通り選手は引退することを11月4日午後5時からの記者会見で正式発表する。この日まで本心を隠し続けたのも、王自身が特定の新聞社にスクープされないよう、お世話になった記者に対し各社平等の共同記者会見というスタイルにこだわったためである。 「口はばったい言い方になるかもしれませんが、王貞治のバッティングができなくなったからです」    本人はそう引退理由を語ったが、80年打撃成績は打率.236こそ規定打席最下位だったものの、30本塁打、84打点はそれぞれリーグ4位。満40歳で迎えたシーズンも、欠場は前夜に死球を受けた5月29日の大洋戦1試合のみで129試合に出場している(当時は130試合制)。  11月23日、後楽園球場のファン感謝デーで引退挨拶。ファーストミットを一塁へ、バットをホームベースに置き世界の王は厳かにグラウンドを去った。その後、OB戦等でも50代を越えてなおホームラン級の当たりを軽々と放ったビッグワンの姿に、野球ファンは「もし代打専任なら50歳近くまでできたはず」なんて妄想してしまうのである。  なお、80年当時は秋季オープン戦があり、11月16日の阪神戦(熊本・藤崎台球場)で王は最終打席に右翼席中段へ正真正銘のラストアーチ。ホーム付近では巨人・阪神両軍ベンチから選手たちが飛び出し偉大な背番号1を出迎えた。これが王貞治にとって、公式戦、オープン戦、オールスター戦などを含め、なんと「通算1032号」の本塁打だった。 文=中溝康隆(なかみぞ・やすたか)

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