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「見えないダムが守ってくれた」九州豪雨で諫早、大きな被害なし 干拓の調整池、治水機能発揮

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産経新聞

 九州の広い範囲を襲った豪雨は各地で河川の氾濫を引き起こし、甚大な被害をもたらした。ただ長年、暴れ川と恐れられてきた長崎県諫早市などを流れる本明川の流域一帯では大きな被害は生じなかった。地元住民からは、国営諫早湾干拓事業で完成した淡水調整池による治水機能に救われたと評価する声が上がる。(九州総局 中村雅和) 【写真】わずか20分で民家水没…とらえた防犯カメラ  「これまでなら水が出ているだろう。少なくとも床下(浸水)までは覚悟しないといけない。でも今はそんな必要はない。心配はしていない」  10日午後、自宅で取材に応じた諫早市自治会連合会の古賀文朗会長は、冷静な表情でこう語った。  九州の広い範囲で大雨をもたらした前線は、諫早市にも牙をむいた。1日あたりの降水量はピーク時で平年の10~20倍にのぼり、市内を流れる本明川は、一部で氾濫危険水位に達していた。10日も正午過ぎから雨脚が強まっていた。  諫早市一帯は周囲を山に囲まれ、雨雲が発生しやすい。降った雨が一気に流れる本明川は、これまでも多くの人命や家財を奪っていた。  昭和32年7月には死者、行方不明者が630人に上った「諫早大水害」が発生した。その後も57年7月(死者21人、床上浸水1379戸など)や平成11年7月(死者1人、床上浸水240戸など)など水害は相次いだ。市民にとって水の恐ろしさは骨身にしみたものだ。  ところが近年、かつてほどの恐怖心は抱かずに済んでいるという。  「見えないダムが諫早を守ってくれている」  古賀氏はその理由をこう説明する。  「見えないダム」とは、国営諫早湾干拓事業で完成した淡水調整池のことだ。                ×  ×  ×  諫早湾干拓の歴史は江戸時代にさかのぼる。  もともと有明海の海流の影響で、ガタ土と呼ばれる火山灰や細かい土砂がたまりやすい湾内は遠浅の干潟になっていた。これを利用して堤防を築き、農業に活用したことで一帯は佐賀藩(現・佐賀、長崎両県)有数の穀倉地帯となった。  ただ、造成後もガタ土の流入は止まらず、河川や水路にまで堆積。遠浅の地形と相まって、水はけは極端に悪く、洪水と高潮被害は諫早の宿命といえた。  現在の干拓事業の原点は諫早大水害に先立つこと5年、戦後復興の槌音が聞こえ始めた昭和27年、西岡竹次郎県知事=当時=が、水害対策や食糧増産を兼ねた「長崎大干拓構想」として発表したものだ。平成元年に着工し、9年に堤防閉め切り、670ヘクタールの農地と2600ヘクタールの淡水調整池の造成事業は20年に終了した。                ×  ×  ×  調整池は通常、海抜マイナス1メートルの高さを保つように管理している。そうすることで、本明川からスムーズに水が流れ込むのだ。たまった水は、干満差を利用して海に排水する。  この仕組みが整備されて以降、豪雨に伴う諫早市内の被害は激減した。23年8月の豪雨では死者は出ず、床上浸水も10戸にとどまった。今回の豪雨でも今月1~20日に市内には平年比の約3倍、842ミリの降水量を記録したが、大きな被害は出なかった。  調整池の効果が顕著だったのは、諫早市内で計424ミリの降雨があった6~7日だ。本明川の水が流れ込んだ調整池の水位は、通常時よりも1メートル以上上昇し、最大で海抜0・25メートルに達していた。たまった水は、引き潮のタイミングで排水門を開放し、海に流して事なきを得た。九州農政局によると、7日は未明と午後の2回、計約8時間半かけて6594万立方メートルを排水。調整池の水位はこの日中に海抜マイナス1・11メートルまで低下。次なる大雨に備える余地を作った。  利根川水系の群馬県・八ッ場ダムは、試験湛水中の平成31年10月の台風19号の豪雨では7500万立方メートルの水をためたことで知られる。今回の調整池の働きはそれと比べても遜色ない水準といえ、干満差を利用する調整池の高い排水能力を裏付けた。  九州農政局の担当者は「調整池が持つ治水機能は今回の豪雨でも発揮された」と語った。  干拓事業の潮受け堤防排水門開門の是非をめぐっては、地元関係者と佐賀県内などの漁業者の対立が続いている。そもそも事業そのものには、自然破壊や無駄な公共事業の象徴などと批判が絶えなかった。  ただ、干拓事業とともにできた調整池が水害に悩まされてきた13万人超の諫早市民を救う砦(とりで)となっていることはデータが実証している。

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