「妹たちを養わないと」内戦で孤児に、17歳の“世帯主” ウガンダ
戦争、迫害、災害、貧困などを理由に故郷を追われる人々は世界中で絶えない。アフリカ最大の難民受け入れ国でありながら、ウクライナや中東の紛争のはざまで光の当たらないウガンダから、難民のいまを報告する。 【写真特集】内戦から逃れた孤児たちの暮らし ウガンダ ◇「なぜ食べ物がないのか」せがまれ 紛争の混乱で多くの子どもたちが両親とはぐれて居場所を失い、次々と国外へ逃れている。頼れる大人が身近にいない異国で、孤児たちはきょうだい同士支え合い、その日その日を必死に生きようとしている。 「妹たちから『おなかがすいたのになぜ食べ物がないのか』と責められる」。アフリカ・ウガンダ西部のチャングワリ難民居住区で暮らすファスティンさん(17)は父母がいない避難生活の窮状を訴える。 2021年2月、ウガンダ西隣のコンゴ民主共和国から6~15歳の妹3人を連れて逃げてきた。日本の約6倍の広さのコンゴは、コバルトやダイヤモンドなど豊かな天然資源を巡って武装勢力による紛争が絶えない。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)によると、ウガンダには24年10月末時点で、ファスティンさんのようなコンゴ難民約55万人が身を寄せている。 ファスティンさんはコンゴ東部で両親や妹たちと暮らしていたが、3年前、夜中に突然何者かに自宅を襲撃された。近所の人たちの悲鳴で目が覚め、自宅のドアを激しくたたく音が聞こえた。状況が分からないまま妹たちと家を飛び出した。徒歩やバスでウガンダにたどり着いたが、両親とはぐれ、安否は今も分からない。襲撃時には地域の多くの人が殺され、ファスティンさんは両親も犠牲になったと考えている。 ◇統計学者になるのが夢 きょうだいが暮らすチャングワリ難民居住区は山手線内側の1・5倍のエリアに約14万人の難民が暮らす。ファスティンさんは近隣のウガンダ人の畑仕事や洗濯を手伝って稼いでいる。 しかし、生計は立てられず、洗濯用のせっけんや妹の生理用品などの日用品も買えない。近所の人から食べ物の差し入れをもらうこともあるが、「彼らが僕たちにあきれていると感じる。こんな生活に自分自身を恥じることさえある」と嘆く。 一番の幸せは家事から離れ、学校で勉強したり、友達と話したりしている時だという。将来は得意教科の数学を生かして高い収入が見込める統計学者を目指している。「自分がこの家族の長であり、妹たちを養わないといけない。統計学者になって政府機関や金融部門で働きたい」と責任感をにじませる。 同じ居住区に弟妹6人と暮らすシャーロットさん(19)も16年、コンゴの自宅が襲撃を受け、両親とはぐれたままだ。近所に住んでいた祖母サベリナさん(67)を頼り、一緒にウガンダに逃れてきた。 長女のシャーロットさんは間もなく20歳を迎えるが、居住区にある小学校に在籍し、今も学んでいる。学費が支払えず停学と復学を繰り返してきたためだ。ウガンダでは祖母が手作りしたパンケーキを弟妹たちと売って生計を立てていたが、2年前から祖母は脚が腫れ、立ち仕事ができなくなった。 代わりにシャーロットさんが弟妹たちとウガンダ人の菜園で畑仕事をするようになった。毎週土曜午前7時から午後1時まで働いているが、報酬は1人当たり1日約7000ウガンダシリング(約300円相当)。「休憩はほとんど取れず、体を酷使するので限界を感じることがある」と嘆く。 夢は看護師になって祖母の脚を治すことだ。そのためには中等教育学校(日本の中学・高校に相当)に進む必要があるが、今の収入では学費は到底賄えない。 シャーロットさんは「家族のために進学を諦めようとも考えたが、夢をかなえるために何とか勉強を頑張ってきた。でも、お金がなければ学校へは行けず、どうすればよいか分からない」と苦悩を深めている。 【チャングワリで郡悠介、写真・滝川大貴】