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「月9」プロデューサーへ|美しい暮らし

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矢吹透 2003年、僕は37歳だった。 その年の前半の仕事は、3月の番組改編期のスペシャル番組「世にも奇妙な物語」と、4月クールの水曜21時枠の連続ドラマと、毎週レギュラーの深夜番組「演技者。」が並行して進んで行った。  ある晩、僕は、女装家である友人の「剥き栗サセコ」と新宿三丁目のレズビアン・バーで酒を飲んでいた。サセコとは、彼が大学生の頃からの知り合いで、僕にとっては弟分のような存在だった。 知り合った当時、サセコは、「GLOW」というセクシュアル・マイノリティの大学生たちが集うインターカレッジのサークルの会長を務めていた。当時、会長であるサセコと共に、副会長だったのが、ブルボンヌだ。 ブルボンヌは、「UC-GALOP」というゲイ向けのパソコン通信のグループを主宰し、GLOWやUC-GALOPのメンバーの中から、サセコやミッツ・マングローブ、エスムラルダといった仲間たちとドラァグ・クィーンのコミカル集団「UPPER CAMP」を結成し、新宿二丁目のクラブなどで開催されるゲイ・ナイトでショーを披露していた。 レズビアン・バーでサセコと飲んでいると、長い髪を束ねたジャージ姿の巨漢が店に入って来た。 「あら、サセちゃん」と巨漢は言って、僕らの横に座った。 サセコの「UPPER CAMP」仲間である、マツコ・デラックスだった。 「UPPER CAMP」のショーで見かけたことはあったが、すっぴんのマツコと直接会って話すのは、僕はこの時が初めてだった。 「フジテレビでドラマを作っている透さん」とサセコは僕のことを、マツコに紹介した。 マツコは当時、ライターや編集者といった仕事をこなしながら、半ば隠棲に近い毎日を送っている、と聞いたような記憶がある。引きこもりに近いような生活で、朝から晩まで、部屋でテレビばかり見ている、と。 マツコは、僕がフジテレビに勤め、ドラマ制作の部署にいると知って、すぐに矢継ぎ早にいろいろな質問や意見を浴びせて来た。 テレビ業界や、放送されているドラマに対する批評や批判などを、マツコは熱弁した。 マツコの論点は概ね、とても的を射ており、僕はその勢いに気圧されながらも、テレビの業界やドラマ制作の現場の状況、自分の考えていることや感じていることについて、出来る限り、いろいろなことをマツコに話した。 翌朝、サセコからメールが来た。 レズビアン・バーのママが、透さんに申し訳ない、と言っている。 テレビについて素人に過ぎないマツコが、酔って、透さんに絡んで、迷惑をかけた、とママが言っている、と。 しかし、僕は、その晩のマツコとのやり取りで、決して嫌な感じを受けなかった。 確かに、マツコの舌鋒は鋭かったが、マツコの言うことはいちいち、もっともだった。 そして何より、僕はマツコの言葉から、テレビというものに対しての愛を感じた。 マツコは、本当にテレビが好きなんだな、と思った。 翻って、自分自身は、マツコほど、テレビのことを愛しているだろうか、と僕は考えざるを得なかった。 僕は既に、テレビの業界やドラマの現場に、うんざりしていた。 志して、配属されたドラマ制作の仕事に、僕は早くも行き詰まり、無力感に苛まれていた。 僕は、給料を貰っているから、というのが主な動機となり、働いているただのサラリーマンに過ぎなかった。 毎日、じっくりと何かを考える暇もないほど、忙しかった。 一日24時間、時間を問わず、携帯電話に電話がじゃんじゃんかかって来る。常に何らかのトラブルが、どこかで発生している。誰かが怒っている。携帯が鳴るたび、心拍数が跳ね上がる。   僕は今でも思い出す。 当時の携帯電話はガラケーと呼ばれるタイプのもので、防水仕様ではなかった。 寸暇を惜しんで、自宅でシャワーを浴びる時間、風呂場のドアのすぐ外に携帯電話を置いておく。 シャワーを浴びていると必ず、携帯が鳴っている気がして、慌てて、ドアを開け、それが錯覚であることに気づく。 そんなことが何度もあった。   その年の後半は、田村正和さんとの仕事が続いた。 「古畑任三郎 すべて閣下の仕業」と「新ニューヨーク恋物語」という田村さん主演のスペシャルドラマ2本に、僕は局プロデューサーとして、付くことになった。 「古畑」も「ニューヨーク恋物語」も、オリジナル版のスタッフが再集結し、制作に当たることになったので、新参者の僕に出来ることはあまりなかった。 専ら、細かい調整作業やら交渉事やら、そんなあれこれをお手伝いするのが精々だった。   「新ニューヨーク恋物語」の脚本は、大石静さんにお願いすることになった。 オリジナル版の脚本家である鎌田敏夫さんが、スケジュール的に執筆が難しく、大石さんに書いて頂けるのであれば、お任せしたい、と仰有ったという経緯があった。 3週間ほど行われたニューヨーク・ロケの最中に、一度、大石さんが陣中見舞いにニューヨークまでいらしたことがある。 ある晩、ディナーの席で、同席者がトイレに立ち、二人きりになった瞬間に、大石さんが僕に訊いた。 矢吹さんは男の人が好きなんですって? 僕は、ニューヨーク駐在を終えて帰国した頃から、社内でもゲイであることを隠さないようになっていた。 誰も彼もに公言する、ということはしなかったけれど、もし誰かに聞かれたら、自分のセクシュアリティについて隠さない、という姿勢だった。 ニューヨークでの暮らしの中で、アメリカのゲイ・リベレーションの気運に触れ、僕はいつの間にか、そんなふうになっていた。 大石さんも、僕の周囲の誰かから、僕のセクシュアリティについて、話を聞いたようだった。 そうなんですよ、と僕は大石さんに答え、それから、僕と大石さんは、お互いのいろいろな話を忌憚なく話すようになって行った。 後に、僕が抑鬱に苦しむようになった時も、大石さんはあれこれと力になってくれた。 今でも、僕にとって、大石さんはとても大切な存在の一人である。   年末に、正月に放送する「古畑」の仕上げを終え、僕はすぐに翌年の4月クールの「月9」の準備に入ることになる。 それまで、外部プロダクション制作のドラマを担当していた僕が、初めて局制作のドラマのプロデューサーを務めることが決まった。 そして、そのデビューが、フジテレビドラマの看板枠である「月9」だった。   この当時撮った写真がほとんどない。今回の1枚は「新ニューヨーク恋物語」のクランクアップ記念写真である。ドラマの撮影の終盤には、必ずキャスト・スタッフ全員で記念写真を撮る、という伝統がある。最前列の右端に写っているのが僕である。 <つづく>   矢吹透さんに人生相談をいたしませんか? 将来の不安、現在の迷い、過去の後悔……自分で処理できない気持ちを矢吹さんがお答えいたします。 相談はこちらのgoogleフォームからご応募ください。 ■矢吹透 東京生まれ。\n慶應義塾大学在学中に第47回小説現代新人賞(講談社主催)を受賞。\n大学を卒業後、テレビ局に勤務するが、早期退職制度に応募し、退社。\n第二の人生を模索する日々。\n

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