『光る君へ』藤原道長が成し遂げた“一家立三后”の天下、有名な「望月の歌」は本当に傲慢さを表した歌だったのか?
■ 栄華を極めた道長一族、「一家立三后」でクライマックスへ 今回の放送はとにかく展開が早かったため、戸惑った視聴者もいたかもしれない。どんなことが起きたのか。おさらいの意味でまとめていこう。 粘りに粘った三条天皇だったが、長和5(1016)年正月29日に退位。ドラマでは「我が在位わずかに4年半……短すぎる」という三条天皇のセリフがあったが、一条天皇の御代が25年も続いただけに、さぞ無念だっただろう。 譲位された東宮の敦成(あつひら)親王は、後一条天皇として即位。9歳と幼かったため、道長が摂政につくが、寛仁元(1017)年3月には、摂政も藤氏長者(とうしのちょうじゃ:藤原氏一族全体の代表者のこと)も、息子の頼通に譲っている。 ドラマでは、あまりにも権勢を振るう道長に対して、町田啓太演じる藤原公任(きんとう)が「はたから見れば欲張りすぎだ。内裏の平安を思うなら左大臣を辞めろ」と進言。道長が「何度も先の帝に譲位を促したが、今度は俺が辞めろと言われる番なのか……」と心の中でつぶやく場面があった。 実際の道長はこの頃、健康状態がかなり悪かったようだ。『小右記』によると、公任は僧の心誉(しんよ)から「摂政、今年、殊なる事無きか。明年、必ず死ぬ」(摂政は、今年は特別な事は無いであろう。来年は、必ず死ぬ)と物騒なことを聞かされたという。病状が良くないことが噂になっていたのかもしれない。 だが、このときの道長には、まだ心残りがあったことだろう。というのも、三条天皇が譲位するにあたって、道長は一条天皇と彰子との間に生まれた第3皇子で、自身の孫である敦良(あつなが)親王を東宮にしようともくろんだ。だが、三条天皇はそれを拒否。譲位の条件として、自分の長男である敦明親王を東宮にさせている。 ところが、三条天皇が寛仁元(1017)年5月9日に崩御すると、状況がガラリと変わる。後ろ盾を失った敦明親王はよほど弱気になったのか、皇太子を辞退。結局、道長の思惑通りに敦良親王が東宮となった。 道長一族の繁栄が著しいが、それだけではない。寛仁2(1018)年3月7日には、道長の四女・藤原威子(たけこ)が、幼い後一条天皇に入内している。 その経緯についてドラマでは、佐月絵美が演じる威子が頼通に「私も兄上のお役に立ちたいと思っております」と何げなく口にしたところ、「では入内してくれぬか」と思わぬお願いをされる。威子は「帝は10歳、私は19歳でございますが」と困惑し、「嫌でございます」と抵抗するも、母・倫子の後押しもあり、結局は押し切られてしまう。 三条天皇が崩御し、敦良親王が東宮となってから1年後には、すさまじい状況になっていたようだ。ナレーションで次のように説明されている。 「彰子は太皇太后(たいこうたいごう)、妍子は皇太后、威子は中宮となり、3つの后の地位を道長の娘3人が占めた」 これぞ道長が成し遂げた「一家立三后(いっかりつさんごう)」である。ドラマもいよいよクライマックスだと感じさせるところで、ついにあの和歌が飛び出すことになった。