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近代を超克しようとした画家の生涯。横山由季子評「背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和」展

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美術手帖

 津田青楓といえば、東京国立近代美術館の所蔵作品展で目にすることのできる《犠牲者》(1933)を思い浮かべる人も多いだろう。ロープに吊るされ、拷問により無数の傷を負った男の姿が縦長の画面一杯に描かれた本作品は、一度見たら決して忘れることのできない鮮烈な印象を残す。この画家の初の回顧展となる本展覧会は、油彩画だけでなく、図案や装幀、工芸品、日本画、水墨・書にいたるまで、多岐にわたるその創作活動の全貌を知らしめるものであった。そして、ともすれば掴みどころのない、青楓の画業と生き様を貫くキーワードとして展覧会タイトルに冠されたのが、「背く」という言葉である。会場で歩みを進めるうちに、旧弊や権力、時代に背いて「過激なまでに自由な立場から物事の本質をつかもうとする」(*1)画家、青楓の人となりがまざまざと浮かびあがってきた。 図案にみる洋の東西の融合  エントランスロビーから展示室に入ると、まず迎えてくれたのは、繊細さと大胆さ、洗練と素朴がせめぎ合う図案の数々である。京都の生け花の家元に生まれた青楓は、若くして画業に親しみ、やがて染織業に新たな模様を提供するための図案を手がけるようになったという。当初は伝統的な図案の模倣にとどまっていたが、弱冠23歳で発表した意欲作《うづら衣》(1903)を契機に、写生をもとにした「自己の図案」を試みるようになる。その背景として、この頃兵役についていた青楓が、駐屯地に広がる田園風景のなかで写生への関心を高めていったこと、そして熱心な読者であり、投稿もしていた文芸雑誌『ホトトギス』における写生文の手法から着想を得た可能性が指摘されている(*2)。  ところで、写生、すなわち自然観察によって、過去の模倣から脱し、装飾の新たな様式を生み出そうという考えは、アール・ヌーヴォーが一世を風靡した19世紀末のフランスでも盛んに唱えられていた。青楓は10代の頃から愛読していた文芸誌『明星』や、1902年にフランスより帰国した浅井忠からの伝聞によって、ほぼ同時代のパリで花開いたこの運動の美学に触れていたと思われる。  青楓が「自己の図案」にいたってからの作品は、染織に応用するのはいささか困難にも思われる、風景の一部をそのまま図案化した斬新なものが多い。それらは図案そのものが作品であるかのような趣きを湛えている。モティーフを周縁部に置く大胆な構図や、平坦な色面の重ね合わせによって奥行きを暗示する手法には、アンリ・リヴィエールやナビ派の絵画にも通じる美学が感じられる。もともと彼らは日本美術に深く傾倒しており、1910年代になると、今度は逆に日本の画家たちの作品にその影響が見られるようになる。1900年代の京都で、青楓が実際にどういったイメージに触れていたかについては具体的な調査が必要だが、図案という平面表現のうちに極めて複雑なかたちで洋の東西を融合させたことは確かだろう。 「近代」に背き続けた画家  やがて青楓は画家を志し、フランスに渡る。彼が滞在した1907~10年のパリといえば、フォーヴィスムやキュビスム、未来派など20世紀の新たな潮流が画壇を賑わせていたが、滞欧中の作品には、こうした同時代の美術からの影響はうかがえない。図案から初期の油彩画、帰国後の夏目漱石との交流までが紹介された最初の展示室を出て階段を登り、装幀の小部屋を経て、続く大きな展示室に入ると、いよいよ洋画家・青楓の誕生である。旧弊にとらわれた文展に不満を持ち、志を同じくする仲間たちと二科会を立ちあげ、精力的に活動を展開していく。1920年代の画風は一貫していないものの、当時の画壇で支配的であった印象派やポスト印象派、フォーヴィスムの造形理論とは距離を置いていたようだ。本展では、洋画を紹介する第2章に「帝国に背く」、第3章に「近代に背く」というタイトルが付されているが、青楓は洋画家としての出発点からすでに、西洋美術が価値を見出した「近代」=「現代性」に、徹底して背く画家であったといえよう。  そんな青楓が、今度は洋画と展覧会という、西洋から移植された「近代」に背くことになる。経済学者・河上肇との出会いや、プロレタリア美術家同盟との関わりを通じて、社会を直視し、公衆に訴えるリアリズムを志向するようになった彼は、実践と理論の両面で自らの信念を深めてゆく。1931年の二科展に出品した《ブルジョワ議会と民衆生活》(現存せず)は、民衆の住むバラック小屋と国会議事堂を対比して描き、物議を醸した。そして官憲による暴力を告発する大作《犠牲者》(1933、東京国立近代美術館蔵)の制作中、左翼運動への資金提供の疑いで拘留の憂き目をみる。起訴留保処分と引きかえに、運動との関わりを断つことを誓約させられ、社会的なメッセージを伝える「洋画」を公の「展覧会」で発表しつづけることに限界を感じ、両者から身を引いた。だが、《疾風怒濤》(1932、笛吹市青楓美術館蔵)のように、一見すると無関係な画題にそのほとばしる思いを込めた作品の方にこそ、青楓の本領があった気がしてならない。  廊下を進んで最後の展示室には、青楓が油彩画と並行して制作を続けてきた、そして洋画断筆後に没頭することになる、およそ半世紀にわたる日本画や書の数々が所狭しと並ぶ。衒いのない闊達な筆さばきが魅力的な作品群からは、公の仕事から退き、私的な世界でのびやかに制作に勤しんだ円熟期の画家の姿が伝わってくる。しかし、展示室の半ばにもうけられた、江戸時代の僧侶であり歌人、書家でもあった良寛への青楓の関心を示すコーナーでは、その裏に隠された葛藤も露わにされていた。青楓は、良寛が「未だ放棄し得ざる悩み」に堪へしのび、その先にある「人間の完成」へと進む姿勢に共感を寄せていたという(*3)。一度は画壇で成功を収め、大勢の弟子たちを擁する洋画塾まで興した青楓にとって、洋画界への未練は断ち難いものだったのであろう。  本展覧会は、青楓が身を投じた多分野の作品を一堂に集めるとともに、彼の創作活動に影響を及ぼした芸術家や思想家、作家たちとの交友関係を丹念に掘り起こし、彼自身や友人たちの言葉によって、その人柄をも身近に感じさせる、まさに回顧展と呼ぶにふさわしい充実の内容だった。そして展覧会を見終わってふと気づく。長い画業のあいだに、日露戦争や関東大震災、第二次世界大戦を経験しながらも、その暗い影を感じさせる作品は、少なくとも本展の出品作品には見当たらなかった。「背く画家」津田青楓は、どのような状況にあっても己の表現を貫き続けることで、自身の周りで巻き起こる不条理を超克しようとしたのかもしれない。 *1──喜夛孝臣「背く画家  津田青楓の一九〇三-一九三三」『生誕一四〇年記念 背く画家 津田青楓と歩む明治・大正・昭和』芸艸堂、2020年、162頁。 *2──同書、162-163頁。 *3──喜夛孝臣「良寛の跡をたどって」、同書134頁。

文=横山由季子

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