渋沢栄一いくつかの小話(2)取引所は賭博? 明治政府内の大激論でもブレず
取引所が今あるのは「渋沢のおかげ」
こうして明治政府は先物取引を公認するに至った。そして150年の歳月は流れた。証券取引所や商品取引所が21世紀の現在、市場経済時代のシンボルとして日々活動しているのは渋沢栄一のおかげと言っても過言ではない。 明治の文豪、幸田露伴はその著「渋沢栄一伝」でこの一件に触れている。 「商業の発達に際し、即時取引にあらざる取引(先物取引)の起こるのは自然の勢いにして、これにより商業は円滑流利に行わるべきものである。……玉乃らと論議して大蔵省は大蔵省の立場として力を尽くしたのは栄一であり、かつなお一歩を進めて相場の取引は必ずしも米、油のみに限るべきではない、公債、株券の売買取引機関を設けるのも今日の急務……」 こんな調子で市場経済論を展開、実地に移していくのだから当時は異端児扱いされたものだ。この一例を見ても渋沢が「日本資本主義の父」と呼ばれるのは当然であろう。今度1万円札の肖像に決まったのは遅きに失したとの見方もあるほどだ。
取引所竣工を記念してしたためた至言の書
昭和の初め、東京米穀商品取引所の新しいビルが完成したとき、渋沢は竣工記念に一書をしたためた。そこにはこう書かれていた。 「成名毎在窮苦日 敗事多因得意時」(名を成すは毎(つね)に窮苦の日に在り 事の敗るは多く得意の時) この書は戦前の立会場に掲げられていたが、戦中、戦後の統制経済時代が終わり、東京穀物商品取引所が復活すると、初代理事長の山崎種二は「この言葉は相場に携わる者には至言である」と言って理事長室に掲げられたという。山種は「相場の神様」と呼ばれ、米や株の相場で華々しい戦歴を残した人だが、渋沢の言葉の中に相場の極意を読み取ったのである。しかしこの言葉は単に相場の極意が込められているばかりか、人生訓そのものと言えよう。 =敬称略
■渋沢栄一(1840~1931)の横顔 天保11(1840)年、武蔵国血洗島村(埼玉県深谷市大字血洗島=ちあらいじま)で生まれる。村でも有数の財産家だった。13歳のころ父に連れられて初めて上京する一方、単身で藍玉の買い付けに出かける。慶応2(1866)年、幕臣となり、翌3年にパリ万国博使節として渡欧、明治3(1870)年に官営富岡製糸場主任、同8(1875)年、第一国立銀行頭取。同11(1878)年に東京商法会議所(のちに東京商業会議所)会頭、同20(1887)年に帝国ホテル会長、同24(1891)年に東京交換所委員長を歴任した後、同34(1901)年、飛鳥山に転居、本邸とする。同35年に欧米視察、同42(1909)年に米実業団を組織して渡米。大正4(1915)年に渡米、同6年に理化学研究所を創立(のち副総裁)し、同9(1920)年には男爵から子爵へ。同12(1923)年の関東大震災で兜町の邸宅は消失。昭和6(1931)年11月11日没。天保以来、11の元号を生き抜いた。「青淵」の雅号は近くにきれいな淵があったことに由来する。