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1977安打で引退のスラッガーが 「あと23」に執着しなかった真相

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「令和に語る、昭和プロ野球の仕事人」 第11回 毒島章一・後編 (前編から読む>>) ◆昭和にはなかったプロ野球の「美女チア軍団」  ファンの記憶も薄れつつあるなか、「昭和プロ野球人」の過去の貴重なインタビュー素材を発掘し、その真髄に迫るシリーズ。"駒沢の暴れん坊"と呼ばれた荒っぽいチームの人望ある主将だった毒島章一(ぶすじま しょういち)さんは、通算1977安打を打っている。区切りの2000本まで、あとわずか。いかにも惜しく思われる数字が途切れた真相が、淡々とした口調で明かされた。 * * *  俊足も生かして1年目の1954年から100試合以上に出場した毒島さんは、打率.264。翌55年には規定打席に到達して.298、三塁打を12本も記録。初めて3割を超え、打率リーグ3位につけた57年には三塁打が13本でリーグトップとなり、サイクル安打も達成。以降、61年、62年、66年と計4回も"三塁打王"になっている。やはり、足が速いからこそ三塁打を狙えたのか。 「そうなんですよ。だいたい、外野の間を抜く打球が多かったですからね。当時は外野の守備位置が全体に浅かったということもあります。それと、あんまりコーチャーのね、意見を聞かずに走ってたもんですからねぇ、へっへっへ。打って、走ってて、初めっからもう自分で行くつもりでいますから。ちょっと外野がもたつきゃあ、サッと行くというような。躊躇せずにね。  それに、あの当時はそういう、走る選手が少なかったです。内野ゴロっつったらファーストまで走んない、外野フライ上がったら走んない選手が多かったんですよ。だからわたしは、行けるチャンスが多かったんですね。ゴロでも走ったですから」

ゴロでも一塁まで全力で走った結果として、新たに水原茂監督が就任した61年の4月から62年8月にかけて、毒島さんは900打席連続無併殺打のパ・リーグ記録を作っている。この数字は2001年に金本知憲(広島)に破られるまで日本記録だった。 「その記録は知らなかったですけど、そういえば、確か水原さんに言われたことあったですね。『おまえ、ダブルプレーがないから安心してられるよな。1人残すからなあ』って。でも、わたしは別に、誰かに言われて走ってたんじゃないんです。ただ楽しいからね」  再び「楽しい」が出てきた。これは野球そのものが楽しい、ということなのだろうか。 「走るのが楽しい。陸上競技やるにしろ、なんにしろ。短距離が好きだったですね」  俊足、守備での強肩も含め、自身の身体能力を発揮できることが「楽しい」のだ。しかしそのわりに、毒島さんの場合は盗塁が多くない。だいたい年間に10個台だったのはなぜか。 「ふふっ。走んなかったんです。くたびれるからね、サイン無視して走んないんです。水原さんにも言われましたもん。『おまえ、オレがサイン出しても走んねえな』っつって。あっはっは。失敗したような顔してね、スタートを」  想定外の理由に笑うしかない。盗塁は有効だとは思っていなかったのだろうか。 「いや、有効だと思ってましたけど、あんまり意識して『盗塁しよう』って気がなかったから」  首脳陣に従わない話が続き、「走るのが楽しい」と言いつつ、三塁打は狙っても盗塁には気が向かず、向かない理由もはっきりしない。若くして主将になり、任命した岩本義行はじめ各監督の信頼が厚く、誠実で真面目な選手だったことを踏まえると、意外過ぎて頭がくらくらする。 「だけど、考えてみりゃ、盗塁のサインなんか、出たのは水原さんが来てからです。井野川さん、岩本さんの頃はなかったんですよ。いろいろ細かいね、フォーメーションなんかをキチッと決めたりすることも」

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