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志村けんのギャグはR&Bや ソウルミュージックと通底してるんだ

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CREA WEB

【第3回】志村けん

 2020年3月29日(日)、志村けんさんが新型コロナウイルスによる肺炎のために亡くなった。入院が発表されてから、あっという間の出来事であった。 【記事】お笑い第7世代 EXITのチャラくて熱い男子トーク  志村けん(以下、敬称略)の芸能においての功績はいろいろ語られている。だから、ここでは世の中で思い出されたり語らたりしていることの範疇は超えられないかもしれない。  だが、この連載は、私自身が見てきた芸能にまつわる個人史、芸能史の性質や役割もあると思って書いているところがある。だからこそ、その足跡をまとめておきたいと思う。  志村けんが世に現れたのは、1970年代のことだった。ザ・ドリフターズの一員としてテレビに登場したのだ。  私がものごころついたときには、すっかり志村けんはドリフの一員であった。その前には荒井注というメンバーがいたということを聞いたが、そのことが想像できないくらいに、志村けんはすでにドリフの中心人物であり、スターであった。  それまでは、加藤茶がグループ内での若者の代表として華のある役割を担当していたが、志村けんが入ったことで、新たにその役割を担うようになったのだというようなことも聞いた。

当時の志村けんは、どことなく色気があった

 私が子供のころは、友達から「志村けんと加藤茶、どっちが好き?」と聞かれ、それだったら志村けんなのかなと思ったことを覚えているが、当時の志村けんには、どことなく色気があった。  こんなやりとりがあったことからもわかるように、アイドル的な視線を持ってみていたひともいたのではないかと思う。  それは何もドリフに限ったことではなく、コメディアンというのは、やはりそういう一面を持っていたし、現在も持っているのである。  ザ・ドリフターズというのは、もともとはバンドであった。  それは戦後の芸能が、主に進駐軍のクラブと密接な関係があり、そこで演奏していた人たちが芸能事務所を立ち上げ、今の芸能界に至るということと関係があるだろう。  現在の老舗の芸能事務所のいくつかは、そんな人たちが作ったのだ。  もちろん、ドリフは進駐軍で演奏していた世代とは異なるが、その時代の先輩たちの空気を受け継いでいるからこそ、バンドであり、それに併行してお笑いをやっていたのである。  当時はインターネットはもちろんなく、アメリカの情報を一般人が簡単に得られない時代であった。そんな時代の芸能人というのは、アメリカの文化をダイレクトに一般大衆に伝えてくれる人でもあった。  1970年から80年代初頭まで、私はアメリカで流行した音楽や映画の知識を、お正月にやる「新春かくし芸大会」の演目で披露されるパロディによって得ていた。  その「かくし芸大会」は、ザ・ドリフターズが当初所属していた渡辺プロダクションが制作を担当していたのだ。  そもそも、ザ・ドリフターズという名前からしてシャレているし、アメリカにも「ラストダンスは私に」や「スタンド・バイ・ミー」でおなじみの同名のコーラスグループが存在している。  日本のザ・ドリフターズも、「ドリフ大爆笑」でスーツを着て5人でステップを踏んでいるが、それも当時のアメリカのコーラスグループのスタイルを踏襲しているのではないだろうか。  2019年、話題になっているのが、志村けんがR&Bやソウルミュージックに精通しており、音楽誌で語っている誌面がネットで見受けられたり、また、志村けんと加藤茶がテレビ番組で披露していた「ヒゲダンス」でかかっていたあの音楽が、アメリカのソウルシンガー、テディ・ペンダーグラスの「Do Me」のベース音からきているということだろう。  確かにあの曲を聞くと、低くてはじけるようなベース音にグルーヴを感じることができる。  それ以外にも、ドリフの「8時だョ! 全員集合」の中の「早口言葉」のコーナーでもアメリカの音楽の影響が感じられる。  このコーナーは、いかりや長介が牧師役で登場し、ドリフのほかのメンバーたちと、ゲストの芸能人たちが、白い衣装をつけた聖歌隊に扮して「なまむぎなまごめなまたまごー」と早口言葉をリズムに合わせて言う内容になっている。  そのときにかかる音楽もまた、グルーヴ感のあるものなのだ。もっとも、こちらの元歌も、ウィルソン・ピケットの「Don't Knock My Love」という曲である。  この音楽にのせて、当時のアイドルや歌手たちが、早口言葉を合わせて歌っていた姿は、さしずめ、ゴスペルのような様相があった。  当時はまだ映画『天使にラブ・ソングを』なども公開されていない時代で、ゴスペルについても、その存在を知らない人の方が多かったのではないかと思われる。彼らは、いち早くこうした文化や風習をテレビに取り入れていた。

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