古田氏の殿堂入りを野茂氏がユーモアで祝福 「アマ時代はバントしかしていなかった人が」。
立命大時代にはドラフト候補とされてマスコミがたくさん集まった会場で指名を待ったが、ついに声はかからなかった。「恥ずかしい、つらい思い出。反骨心ではないが、若かったし、プロで活躍してやるんだ!という強い気持ちを持った」 トヨタ自動車を経て1989年のドラフト2位でヤクルトへ入団した。当時の野村克也監督は「メガネのキャッチャーはいらん。若い高校生を育てる」とスカウト会議で発言したが、古田を追いかけ続けた片岡宏雄スカウト部長が「絶対に使えますから」と押し切って指名した。 古田氏は、「プロ入り前につらいことがあったので、何があってもあきらめず、キレることなく、受け入れることができた」という。 忘れられないのは野村克也監督との出会いだ。 「メガネをかけたキャッチャーは、通用しないと言われていたけれど、ここにいる全日本監督だった鈴木(義信)さんに『大丈夫だ。実力がある、暴れて来い!』と言われて自信になった。ラッキーだったのは、野村監督との出会い。今思い出しても厳しかったが、死にもの狂いで、ついていった。毎日のようにベンチで立たされて怒られた。野村さんは完璧主義。ちょっとしたミスも許さず、どんどん要求が高くなった。それでも毎日試合があるから失敗しても、とり返すチャンスがあった。キャンプでも、毎日、1時間以上のミーティングがあって生きたデータの取り方や活かし方を学び、実戦の中で細かく教えてもらった。今となって考えても、それが血となり肉となったと思う」 実働18シーズンで2097安打を記録。通算打率.294で、MVP2度、正力賞1度、ベストナイン9度、ゴールデングラブ賞10度を数える名キャッチャーとなったが、「大学、社会人出身の選手が積み重ねた2000安打と首位打者のシーズン」が記憶に刻まれている。 入団2年目となる1991年に首位打者タイトルをとったが、最後は、中日の落合博満氏と野球史に残るデッドヒートとなった。野村監督に「タイトルを取るチャンスはなかなかない。明日はもう休め」とタイトルを取るために温情をもらったが、落合がダブルヘッダーで6の5を打って打率を.3395として逆転。タイトルを取るために1本ヒットを打たねばならなくなった古田は、最終戦の第一打席でヒットを打ち、結果、2の1で打率を.3398として、わずか3毛差で逃げ切った。「油断したわけではないが、そういう展開になって前の晩は眠れなかった」と、古田は、まるで昨日のことのように振り返った。 個人成績以外では、92、93年の日本シリーズの話を口にして、「92年の日本シリーズで王者西武に敗れたが、翌年はリーグ優勝して、その日本シリーズで西武にリベンジを果たしてヤクルトスワローズの認知度が上がった。思い出深い」と語った。