【オリックス】平井育成コーチが振り返る「1・17」 ファンの応援が勇気を与えてくれた…若い選手にもそれを感じてほしい
オリックスの平井正史育成コーチ(45)は阪神・淡路大震災から26年を迎えた17日、大阪市此花区の球団施設で代表取材に応じ、思いを語った。正午からは神戸方面に向かい黙とうをささげた。 震災が起こった当時、ドラフト1位で宇和島東高(愛媛)から入団した平井コーチは、2年目のシーズンを迎えようとしていた。地震が起こった午前5時46分は、神戸市西区の合宿所「青濤館(せいとうかん)」で寝ていた。突き上げるような大きな揺れに飛び起きた。 「経験のない地震だった。アタマは真っ白。何が起きたか分からなかった。そのときの衝撃、そのあとの被害状況、そして復興するまでの過程は自分のなかで忘れられない光景。被災の光景は鮮明に覚えています。長田の街が燃えている黒い煙は、寮からも見えました。毎年毎年この時期になると思い出します」 その日、イチローらとともに自主トレのため宮古島へ出発する予定だった。集合がかかったわけでもないが、寮生が次々と自室を出て、食堂に集まった。合宿所の周囲はそれほど被害が出ているように見えなかったため移動を考えたという。 「いつものタクシー会社に電話をした記憶があります。でも、とてもじゃないが無理と言われて。合宿所にいても情報が入ってこない。停電でテレビもつかない。とりあえず準備をしようかとなって。でも、会社にも連絡がつかない。そのうち誰かが携帯電話を持っていて。イチローさんだったかな? そこに連絡が入って、自主トレは中止だと」 それから何日間は合宿所にいた。だが、食料が尽きた。ライフラインも止まっている。いったん退居することになり、平井は知り合いの自宅へ転がり込んだ。神戸市北区の居候先は電気も通っていたという。 2月の宮古島キャンプは参加できる者だけ集まることになったが、全員が集合した。 「博多に集合となり、そこから宮古島へ。覚えているのはそこから。それまではどうだったのかあまり覚えていない。西明石に出て、博多までの新幹線に乗ったはず。その前に合宿所に戻ったかどうかも記憶がない。そのとき野球道具は持っていなかったはずなので、どこかで一度、荷物出しに戻ったのかも。そのあたりの記憶はないんです」 そのシーズン、オリックスは「がんばろう神戸」をスローガンにリーグ優勝を果たす。抑えを任された平井は53試合に救援登板して、15勝5敗27セーブをマーク。新人王、最高勝率、最優秀救援投手賞の3冠に輝いた。 「何か見えない力が働いてくれたかな、とは思います」 シーズン途中から神戸のファンを含めた一体感を肌に感じるようになった。 「途中からかな。最初は、言葉は悪いですけど人のことを考えていられない状況でしたから。お客さんがスタンドに入るかどうか分からない状況で、神戸でも試合ができるかどうかも不安だったので。6月ぐらいですかね。勝つごとに応援してくれるファンの気持ちが伝わってくるようになった。やっぱりチームが勝ち始めたときの一体感はあったと思います。優勝に向かって勝っていくときに、優勝がんばれ! という思いを感じてきて一体感が生まれたんだと思います。自分にしっかり勇気を与えてくれたかな、と思います。神戸の街が盛り上がったことは自分たちも実感していますし、ファンの皆さんが喜んでくれて、野球をやっていて良かったなという気持ちになりました」 平井は連覇に貢献したものの、2003年にトレードで中日へ移籍。中継ぎとして復活し、13年に古巣に戻り、2014年に現役を終えた。引退後はコーチに就任し、今年は育成コーチを担当する。チームで阪神・淡路大震災を体験したのは福良淳一ゼネラルマネジャー、中嶋聡監督らと一握りだ。 「体験した人が伝えていかないといけない。若い選手には、ファンの大切さ、周りの人の支えがどれだけ大切かを感じてほしいですね」 昨年からコロナ禍が続く。2月の宮崎キャンプは無観客で始まる予定で、先行きは不透明だ。 「これも災害かもしれません。自分もならない。周りにもうつさない。しっかりと周りを見ながらやっていかないといけません。自分のためだけでなく、家族や周りの人のことを考えながらやっていかなければいけないと思います」と気を引き締めた。
中日スポーツ